校庭に水木見上げて立ちおれば事務長が来て水木見ずゆく

                                吉村明美『中庭の欅』(2007年)

 

 高校の保健室に勤務するという著者。学校でのある日の出来事なのだろう。校庭の水木をぼんやりと眺めて季節を感じている。その傍らに事務長がやって来たのだが、水木を目にしないままどこかに去ってゆく。そのときにふと際だったすれ違いの感覚が、伝わってくる。事務長とは少しでも会話を交わしたのだろうか。

 「立ちおれば」に流れている時間は比較的長い。少し前から今までしばらくの間を立っているのだろう。立っている自分を意識するまでの時間の経過もある。その傍らをいそいそと事務長が「水木見ずゆく」のであるが、「ゆく」という動詞に流れる時間は短い。「立ちおれば」と「ゆく」はどちらも現在形の表現であるが、その時間の流れ方は微妙に違うようだ。そこに主体と事務長に流れる時間の早さの違いのようなものも読みとれて、すれ違いの感覚が際だってくるのだと思う。蛇足ながら「立ちおれば」は「立っていたので」というふうに因果を示すのではなく、「立っていたらちょうどそのときに」くらいの意味にとれば良いのだろう。

 

洗濯はあしたしようと思うとき明日が来ること疑わぬなり

這い出でし感覚なるや秋の陽にいつもの駅が耀く朝

わが前を走る車に乗せられた簡易トイレも朝の出勤

 

 何でもない光景をちょっと別角度から捉えたような歌に、はっと立ち止まることが多い。一首目、「明日が来ること」を疑っていない自分に気付くということは、こころのどこかで明日は来ないかもしれないと感じているのではないか。それが「洗濯はあしたしよう」という日常の感覚から導き出されたところに、この歌のリアリティーがある。三首目、簡易トイレが朝からトラックで運ばれてゆく様子が、どこか心にひっかかったのだろう。自分の運転する車の前の巨大なトイレ。このトイレはどこで使われるのか。描かれていないはずのトイレの大きさや形状が何となく想像されるのはなぜだろう。

 

校門の楠の上より睥睨し説教口調に鴉鳴きいる

百年も昔のような朝が来て視えぬ疲労が積もりつづける

試験日の午後を使いて催さる進路部主催<出口を探せ>

すくと立ち鋭意努力して来たとおのれを語り始める教師

採点に励む教師の独り言とがりてくれば窓開けに立つ

グランドを走る生徒らおのもおのもつんのめり倒れパスをまわして

 

  学校の歌にも心に残るものが多い。斜に構えたところから学校の光景を捉えているというわけではないが、どこか別角度から物事の進行を見つめているというような風情もある。<出口をさがせ>などど、単純に物事を考えるわけにはゆかないのだ。

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