水際に夕日を引き込む重力が遠いわたしに服を脱がせる

平岡直子 「町」4号(2010)

 

※同人誌「町」概要は3月12日の更新参照http://www.sunagoya.com/tanka/?p=7338

 

引き続き、「町」4号から。

 

平岡直子は1984年生まれ。言わずと知れた、今年の「歌壇賞」受賞者である。一見すると女子っぽいふんわりした文体のように見えて、どこかハードボイルドな印象というか、捨て身の迫力を感じるところがユニーク、かつ怖い。

「水際に夕日を引き込む重力」は、物理的にはだいぶ無理のある描写だ(野暮を承知で説明すると、「重力」は地球上のものに働く力なので、夕日が重力で引き込まれるということはありえない。「重力」が服を脱がせるというのも変だし、「水際」に夕日が沈んでいくというのも実景としては違和感がある)。にもかかわらず、詩の言葉としては不思議と納得がいく。強い力に引き寄せられるように沈む夕日。具体的には海や湖の風景なのかもしれないが、「水際」としたことで、たゆたう水と夕日の朱い光だけがクローズアップされ、迫力ある構図となっている。

「わたし」は、夕日を目にしている訳ではない。遠いところで太陽が没していく、その力を、身体のどこかが感じ取っているのである。言われてみれば、服を脱いでいくときに感じる微妙な抵抗感と心地よい解放感は、水に吸い付くように沈んでいく太陽と、確かに響きあっているような気がする(ビルに沈む夕日や山に沈む夕日では、そこまで響いてこない。「水」と「身体」の取り合わせが効いているのだ)。

スケールの大きい歌だが、どこかに孤独の気配があるのも見逃すことができない。たとえばイソップ童話の「北風と太陽」では、太陽の温かな光が旅人のマントを脱がすが、この歌の夕日は、直接「わたし」に関与してこない。重力は「わたしの服」を脱がせるのではなく、「わたしに」服を脱がせる。「脱ぐ」動作の主体はあくまでも「わたし」であり、「わたし」はあくまでも一人きりで、自分の身体を露わにしていくのである。

 

  テーブルの上の眼鏡が光らない、笑わない、二足歩行をしない

  運命の相手と思う自販機も自販機の吐くコインも缶も

 

これらの歌にも、孤独がにじんでいる。テーブルの上の眼鏡は、自分のものではなく、恋人(?)の持ち物だと解釈した。「光らない」はともかく、眼鏡が「笑わない」「二足歩行をしない」のは当たり前なのだが、この過剰な欠落感は、眼鏡の持ち主の不在が要因となっているのだろう。自販機や小銭や缶を「運命の相手」と思い込むのも、やはり一人きりの寂しさと無縁ではない。孤独で寂しがり、けれども自分なりのやり方で「運命の相手」を見つけて日々を乗り切っていく。そんな語り手のサバイバル術が、切なくも力強い。はじめに書いた「ハードボイルドな印象」とは、こういうところから来ているのかなと思う。

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