妬心を鎮めゐたれば家並より炬火(きよくわ)のやうなる月のぼりくる

 

                         米口實『ソシュールの春』(1998年)

 

 人を妬むこころが、主体のなかにある。「妬心」とは意味が強くて、普通は使いにくい言葉だろう。何かを妬むこころとは、人に褒められるようなものではない。しかし主体のなにはそれが抜き差し難く存在するようだ。第二句は「鎮めゐたれば」となっているが、それは自分の感情をなかなか宥められないということでもある。何への妬心なのか、ここでは明確にされず、それゆえ妬むというこころのエネルギーが不気味にも思えてくる。そして、下の句に出てくるのは「炬火のやうなる月」である。燃えさかる炬火(たいまつ、かがり火)のような月がじんわりと昇ってくる。地面に近いところの大きな月であろう。それは、自分の心のなかを映しているように妖しげに燃えているのである。自分の邪心を見せられているようで、たじろいでいるような主体のありようがそこにある。景の転換はダイナミックであり、やや浪漫派ふうの歌い口ともいえよう。

   『ソシュールの春』は米口の第二歌集である。「多磨」から「形成」へと長く所属した結社を離れて「眩」を創刊して後の歌集で、「これが私の第一だと思う」(現代歌人文庫『米口實歌集』プロフィールの項より)の言葉もあり、心機一転の一冊であるようだ。まるで青年の抱くような自意識との葛藤の歌も多く、注目する。

 

追ひこしざまに舌打ちをする男ありいまいましさは何にかかはる

 

この日ごろ顔を見せぬと思ひゐしに兎のやうに死にてをりたる

 

 人が舌打ちをするとどきりとする。脈絡もなく、追い越しざまに舌打ちをされればなおさらだ。おそらく振り返ることもなく彼は去っていったのだろうが、その苛立ちの原因に主体は思いをはせる。すこし深読みをすると、かの男は自分の分身ではなかったか、彼の苛立ちと自分の苛立ちは実は重なっているのではと主体は思ったのではないか。二首目の「兎のやうに死にてをりたる」にも、幾分のアイロニーがあり、主体の自意識がふっと顔を見せているように思う。「思ひゐしに」の字余りあたりにも、感情の高まりがほのかに顔を見せていると思う。

 

いつの世のことであつたか年寄りのからだが溶けて花となりしは

 

死者もなほ老いゆくものか夢のなか呆け屈まりて坐りいましき

 

わが遺体そこに置かれて秋まひる発酵したる枯葉にほへる

 

 自身や周囲の老いを詠んだ歌も印象的である。「年寄りのからだが溶けて花」となったり、「わが遺体」の周りの「発酵したる枯葉」を想像したり、身体感覚がふと幻想へとつながってゆき、艶のある老いの歌となっている。

 

 

パソコンの画面のあをき水に入り尾ひれ触れあふさびしき魚と

 

泣きたいやうな日常だから老人はマウス握つてしんと孤独だ

 

レンタサイクル磨かれて在り鰯雲きらめき峰をめぐりゆくため

 

 

 一方でこのような日常を歌った作品も、しんとこころに沁みた。「レンタサイクル磨かれて」への注目は清新な叙情であろう。

 

編集部より:『米口 實歌集』(『ソシュールの春』を全篇収録)はこちら↓

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