凍てつきし地(つち)に正午の光澄みものの象を残しつつ溶く

 

                                     田井安曇『木や旗や魚らの夜に歌った歌』(1974年)

 

 冬の凍てついた地面、そこに正午の光が澄むように注いでいる。穏やかな昼の光に、凍っていたさまざまのものは「ものの象(かたち)を残しつつ」溶けてゆくのである。ある冬の日の様子を詠んだ自然詠であるが、「ものの象を残しつつ」はものの細部に注目しながらもどこかダイナミックな捉え方である。冬の地面では、石とか木とか様々なものが凍っているであろう。溶けてゆくものの具体の細部を描いているわけではなく、凍っているそれぞれがそれぞれの形をとどめながら溶けてゆくという捉え方は、理知であるともいえる。しかしながら、この歌ではそれが理屈に落ちずむしろ溶けてゆく地面のリアリティーになっている。おそらく冬の地面ではさまざまなものが白く、同じように凍っているのではないか。それが溶けてゆくときにそれぞれの形を表わしてゆく。すべてのものが一斉に溶けて、それぞれが形を成してゆくというダイナミズムがこの「ものの象を残しつつ」にはあると思う。

 

遠渚降り次ぐ鳶は海に向き風に面を並べたり見ゆ

 屋根にいる大工の背中一様(いちよう)に光ればさびし海光(かいこう)の中

 丘の上に晩夏のひかり澄みながらたちまちにわが額を灼けり

 

 一首目は、鳶が渚に次々に降りる様子を遠景から描いた歌。遠い渚に舞い降りる鳶は、海に向き、風の方向に顔をむけてならぶ。「風に面を並べたり見ゆ」という文体が面白い。「風に面を並ぶるが見ゆ」「風に面を並べたるが見ゆ」では面白さが半減するだろう。「風に面を並べたり」で一度風景が完結して、最後にその風景が「見ゆ」なのである。鳶が同じ方向を向いて舞い降りるというやや大づかみな風景が、結句の「見ゆ」でくっきりと浮かびあがる。二首目では大工の背中が海光のなかに光り、三首目では、丘の上の晩夏の光が自分の額を灼いているのだが、海光や晩夏光という大きな景が大工の背や自らの額という小さな景の背後にあり、対応がダイナミックである。やや浪漫的な歌いぶりともいえようか。

 

 『木や旗や魚らの夜に歌った歌』は田井の第一歌集(刊行順としては二冊目)である。1948年から1956年までの初期作品が収録されている。

 

海見ゆる路地の奥へと逢いにゆく今宵兜虫のごとき靴穿きて

部屋の隅に靴下を洗い吊したり今日の曇りに為しし一つに

 井戸水の赤きこの町に嫁ぎ来てわが母のねがいに水のこと一つ

 階下より皿を並べる音きこえ汗ばみながらまた眠りゆく

 夏蜜柑畳に放るごとく置き一人くやしくわが眠るなり

 起き上り胸に捧げて物食ぶる癒えゆく妻の虹のごとしも

 

 昭和20年代を生きる青年の生活や苦悶がある作品も興味深い。

 

編集部より:『木や旗や魚らの夜に歌った歌』が収録されている『田井安曇歌集』はこちら↓

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