米川千嘉子『滝と流星』(2004年)
からだの具合がわるくなって熱が高くなることを病院では<熱発>(ねっぱつ)といわれている。
これはいわゆる<発熱>の医療現場での共通用語のようだ。高熱の子どもを抱えて病院にいったとき、この<ねっぱつ>という言葉がやけに耳に残った。
子どもは熱が高くなると、体じゅうがほんとうに熱い。ただただ熱のかたまりとなる感じ。
だから、<発熱>(はつねつ)より、<熱発>(ねっぱつ)のほうが、語感からして現実味があるなあとおもったのを憶えている。
インフルエンザは高熱が出る場合が多いので、この「熱し」はまさに実感。
熱でぐったりした子どもに、林檎を摺ってなんとか食べさせようとする。
熱い子どものからだに触れた手で、林檎を摺っていると、ぱらぱらと何かが弾け出すような感覚になったのだろうか。
「出づるべし」に、子どもの熱との因果がみえる。
「極々小の星」に、自分にしかみえないもの、あるいは、自分にだけしか感じられない愛情などを連想した。高熱に苦しんでいる子どもを、わたしがなんとかせねば、と母はおもうのである。
黄金いろの林檎を摺りながら。