驟雨に濡れし鉄骨の乾く時われは感情の処理にとまどふ

 

                                                        眞鍋美恵子『朱夏』(1954年)

 

 突然の雨が辺りを濡らして去って行った。建設中か、あるいは解体中なのか、露わになっている建物の鉄骨はやがて乾いてゆくが、そのとき作中主体は自らの感情の処理に戸惑っているというのである。驟雨と、主体の感情のざわめきは無関係なものであろう。しかしながら、どちらも不意に来ては去ってゆくものであり、共通点がないわけではない。驟雨という外界の変化に、感情の変化が喚起されたともいえるだろう。そして、上の句と下の句が重ね合わされるとき、雨や感情の変化に臨場感が出てくるのだと思う。

  「濡れし鉄骨の乾く」は、ワンフレーズの内に動詞がふたつ含まれており展開がやや忙しいが、鉄骨が濡れて乾いてゆくときの色の変化の速さが刻々と見えるようでもある。この即物的な「見える」感じと、下の句の「感情の処理」というような理知的な認識がこの歌ではうまくつなぎあわされているのではないか。

 

体温をたもぬ植物の清潔を疲れし夜半にわれはおもへる

 

 「体温の持たぬ植物」というやや難解な認識が、夜半の体の疲れとともに歌われる。認識と体感がうまく溶け合っているように思う。

 

つかれつつ歩める夕べ店先に玉子をあやふく人の盛り居り

 優越感をもつらしき人の繊(ほそ)き手がわが前に青き果実を切れり

 無花果の葉が直接に感じゐるひびきなり高くジェット機過ぐる

 苦しけれど生くるはよしと言ひし娘(こ)が茱萸(ぐみ)の枝に足袋をほしてゆきたり

 ダイヤの大(おほい)なる珠を見ゐしかばわが息に飾窓(まど)の硝子くもりつ

 アドバルーンの不透明体が浮ぶ空解決のなきままに暮れゆく

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