あやまりにゆくとき地図にある橋は鷗の声にまみれてゐたり

魚村晋太郎『銀耳』(2003)

 

謝るのには体力がいる。わざわざ相手先に出向いて詫びなければならないような状況であれば、尚更だ。

語り手は、まだそこを訪れたことがない。道に迷って時間に遅れたりすれば、相手はますます怒るだろう。だから、地図を広げ、慎重に道のりをシミュレートしているのだ。海にほど近い駅を降りる。線路を背にしてしばらく歩く。三つめの交差点を左に折れる。次の角を右に折れると、橋が見える。渡る。その先に、目的地がある。頭の中で幾度も辿るうち、まだ見たことのない風景がまざまざと立ち上がってくる。

「まみれる」という動詞がとてもいい。視界にまで覆いかぶさってくるような鷗どものみゃあみゃあ声は、いかにも「まみれる」という感じがする。と同時に、語り手自身の心もまた、後悔やら、自己嫌悪やら、ネガティブな感情にまみれまみれている。

ああ、鷗がうるさい。この橋を渡っていきたくない。けれども、渡らなくては。傍から見れば一枚の地図をじっと見つめているだけの男の内部を、今、海辺の湿った風が吹き荒れているのである。

 

『銀耳』から、鳥の出てくる歌をもう少し引いてみる。

 

  もう二日メールが来ない青鷺をはじめてみたと言つたひとから

  影よりも声が多いといつもおもふ鳥のエリアに手帳を開く

  鳥の影、鳥を離れる 分身としてあるならば悪しきひとりに

 

1首目は巻頭の歌。頻繁にやり取りしている人からのメールが、ふいに途絶えた。たった二日の空白がひどく長く感じられる。二日前のメールに書いてあった「青鷺をはじめてみた」という報告が、妙に美しく思い出される。恋の気配が、青鷺という美しい鳥の名に託された一首と思う。

2首目。「あやまりにゆくとき」の歌と道具立てが似ているが(「地図」と「手帳」、鳥の「声」)、こちらは手帳を広げることで、鳥の声にまみれてしまうことなく、自分のスペースを確保している。

3首目は、やはり水辺の鳥だろうか。水面から飛び立った瞬間、一体化していた鳥と鳥の影とが分かれる。それを見ていると、(ジキルとハイドならばハイド側になりたい)という欲望が、ふっと心の奥底から湧いてくる。暗くて、美しい歌だ。

 

 

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