扇風機うごきてさらにむしあつし電車に立ちてわが運ばるる

 

                吉岡生夫『勇怯篇 草食獣・そのⅢ』(1988年)

 

 今はほとんど見かけなくなってしまったが、私の地元では、高校生の頃くらいまで車内に冷房設備がなく、夏になると扇風機の回る列車が走っていた。この歌でも、そのような列車に主体は乗っているのであろう。内容的には何と言うこともない歌であるが、どことなく読者に「もやっとした」主体の体感が伝わる歌だと思う。

 上の句「扇風機うごきてさらにむしあつし」までを読んだところでは、まだ電車が出て来ていない。読者は湿度の高い蒸し暑い部屋で往生している主体の姿を想像するだろう。それが三句で突如電車が出て来る。「電車に立ちて」で主体が電車に乗っているということが了解されるのであるが、読者にはここで初めて電車の音が聞こえて来る。主体の汗ばむ額に寄っていたカメラがここで一歩後方に退いて、全体像として混んでいる列車の風景が見えて来る。そこにアフレコのように、電車のガタンガタンと言う音が再生されてくるようだ。そして結句「わが運ばるる」は幾分自己を客体化するような表現であろう。上の句の「むしあつし」は暑さを感じている主体自身による感覚であるが、「わが運ばるる」では運ばれてゆく「われ」を外から眺めているような視線もある。自分の運ばれてゆく様子を自分自身で意識しているようで、「われ」はやや自意識過剰であるともいえるであろう。カメラが退いたり視線がすこしだけねじれたり、そういう「動き」に主体の体感がすっと乗ってくる。

 

下駄はきて坂道おりてくる音をききをり何といふ自由かと

 

   下駄を履いて坂道を降りて来る人の音がした。からころと、何と言う自由な音だろう。この音を鳴らしている人も何と自由なことか。通釈するとそうなるだろう。下駄の音から、自由さを感じ取るという思考の回路はわからないわけではない(靴でなく下駄を履くのはフォーマルではないプライベートな時が多いだろう)。その上で私は「何と言ふ自由かと」の「何と言ふ」あたりにやや言葉の過剰を感じる。下駄の音だけで、その人は自由人であるかのような独断をする主体が見えるのである。すこし見え隠れするこの思いこみの強さが何とも面白く、ちょっと自意識過剰な笑いがある。

 

妻と子と母がすわれば空をとぶかたちとなりぬ電気カーペット

 アルファベットの文字が右へとつづられてゆくはまさしく蟹のごとしも

 

 いっぽうこのような歌は、精神の余裕から来るユーモアだろうか。「空をとぶかたちとなりぬ」「まさしく蟹のごとしも」は、手放しで面白がることができる。ほのぼのと笑うことができる。

 

スカートをはかされゐるは女にて布団乾すなり午後の日ざしに

 わきの下に乳首のごときいぼあればしばしば触るる夏の夕べを

 天地開闢ならむつくゑのひきだしをあけて光のさしそむるとき

 水洗のペダルを踏みて出できたり排泄せしは腸にあらずや

 

 「はかされゐるは女にて」「乳首のごときいぼあれば」には、世間的なものへの違和感や、手が感じる不思議な感触が、そのままぬめるように表現されている。その直截がなかなかに面白く刺激的だ。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です