わら灰をつくりて心しづまるを帰りし家に感じつつ居る

 

                       斎藤茂吉『つきかげ』(1954年)

 

 わら灰は藁を焼いて作った灰。田舎生まれの私であるが、さすがに自分の世代だとその使用法は良く分からない。少しネットで検索したところ、肥料や陶器の釉薬に使われるらしい。何となく想像するに、茂吉は有名なかの愛用の火鉢に藁灰を使ったのではないかと想像する(ひょっとしたら、この歌の背景に関する実証的、評伝的な観賞もあるのかもしれないが、ひとまずここではおいておく)。そういえば子供のころ、祖父とともに畑に伏せるジャガイモの切り口に灰を塗った記憶が私にあるが、あれは藁灰だったのだろうか。

 藁灰が生活に必要だったのだろう。最晩年の『つきかげ』時代の茂吉が自ら藁灰を作ったのかどうかは分からないが、必要な藁灰を手にして幾分安心したのではないか。「心しづまるを」にはそのような実用的な部分もあるような気もする。むろん、藁を焼くという行為そのものにも、心を静めるような効果があったのだろう。

 そして、やはり歌い方がどこか面白い歌である。言いたい内容は上の句でほとんどすべて出ていると言って良いだろう。一首を上から読み下す時、「わら灰をつくりて心しづまるを」までで、すでに灰を作っているときの映像や匂いが読者に差し出されている。「こころしづまるを」を作者とともに、読者は体験済みだ。しかしながら、下の句で「帰りし家に感じつつ居る」によって、すでに提示ざれた藁を焼くという映像が括弧のなかに入って、回想の対象になる。現在のものとして提示された上の句の内容が、近過去のものとなって、心の中で反芻されるのである。一首の中で、藁を焼くという光景が現在のものから過去の映像へと微妙に移動する。二回ほど藁を焼くという映像を見せられた感じがするのである。

 その効果は何か。私に残るのはダメ押し感である。こころの中に残っていた光景が、奥の方から取り出されて、何度か反芻される。茂吉の心の中を占めて、漂っているであろう光景と感覚がダメ押しのように何度か読者の頭の中で繰り返される。それは茂吉の意識のたゆたいそのものではないか。何度も同じことを反芻するというのは、晩年の茂吉の意識そのものである。彼の意識の揺れをそのまま、この文体で読者は長く追体験することになるのである。

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