同年代そは幻よ春陽射すひと日を隔てたるゆゑひとり

紀野恵『フムフムランドの四季』(1987)

 

あるシンポジウムの資料を作るため、年の近い短歌仲間に「短歌を語る上で〈同世代〉だと思うのは具体的に誰から誰までか」と聞いて回ったことがある。私自身の答えは「1978年生まれの黒瀬珂瀾さんから、1983年生まれの堂園昌彦くんまで」というものだったが、誰一人同じ感覚を持つ人はおらず、意外なほどばらばらな〈世代観〉を持っていたのが面白かった。ひとつ年下の某氏から「石川さんまでが上の世代、僕からが下の世代」と断言されたのは、うっすらショックだった。

……と、いう話はさておき。世代とか年代とかでひとくくりにするやり方は、とてもわかりやすいが大雑把すぎて、重要な細部を取り落としてしまうこともしばしばだ。

この一首は、「同年代」などというものは、「そは幻よ」と軽やかに言い切っている。たった一日誕生日がずれていても、もう同年代とは思わない。私は私。あなたはあなた。彼は彼。皆、たった一人の「年代」を生きている。

そうした「一日のずれ」を表現するのに、「春陽射すひと日」を持ってくるところが何とも心憎い。一人きりであることの孤独をぐいぐいえぐり取るのではなく、あくまでも柔らかく他者と距離を保っているような空気。「そは幻よ」という古典調の言い回しも、雅やかな雰囲気を演出している。

 

『フムフムランドの四季』の序文(フムフムランド入国案内)には、「フムフムランドは日本国の南方三百余里に有り。住民の性は温和にして、ややこんぐらがりたる所有り。気候温暖、四季の実りは豊かに、人々昼夜を分かたず居睡りつつ、手すさびに書物をめくりはたまた枕にして日々を暮らす。(後略)」とある。キノメグミの詠む歌は全て、日本国を遥かに離れた海上浮遊の島で作られたものであるのだという。

 

  枕によきは六法全書広辞苑結ぶゆめこそ覚束なけれ

  イタリイといふうす青き長靴のもう片方を片手に提げて

  白き花の地にふりそそぐかはたれやほの明るくて努力は嫌ひ

  棄つといふひとつことにぞわづらへる冬至のかぼちやふつふつ黄色

 

日常の世界とは堂々と距離を置き、しかし、「四季の実り」がふんだんに盛り込まれた、「フムフムランド」。この泰然たる雰囲気、良いなあ、とうっとりしつつ、日常の渦に巻き込まれがちな私には、真似しきれないのである。

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