「ロバの耳」がたくさん落ちている穴へ私も落とす夕べの耳を

細溝洋子『コントラバス』(2008)

 

有名な「王様の耳はロバの耳」を元にした歌。ギリシア神話では、王の耳がロバの耳であることを知ってしまった理髪師が、秘密を胸にしまっておくことができず、地面に穴を掘って「王様の耳はロバの耳」とささやく。ところが、その穴から葦が生えてきて、「王様の耳はロバの耳」と鳴り出したので、秘密が多くの人に知れ渡ってしまう。

誰にも言えない秘密を皆が落としにくる、暗い穴。そこに、「私」もこっそり何かを言いにきた。語り手が抱えていた秘密の内容が気になるところではあるが、「秘密」を落としにくるのではなく「夕べの耳を」落とすと言っているところに軽いひねりがあり、歌の印象をユーモラスなものにしている。

  

  出どころの確かな噂あちこちに花を咲かせてここまでを来つ

 

こちらも「噂」の広まる歌だが、やはり、陰湿な陰口のイメージはない。桜の開花宣言のように列島を順々に横断してやってくる噂話は、むしろ賑やかで楽しげだ。

 

  「空気が読めない」と今なら思うその人を夏から夏までわれは見ていき

  人の話が右から左へ抜けるのか私が人を抜けてゆくのか

  聞き覚えある声風の交差点思うことと話すことがばらばら 

  乗り換えの小さな駅に降りたてる回想と空想のよく似た姉妹

 

こうして好きな歌を並べてみると、歌の語り手が全体的に「上の空」であることに気づく。会話の流れからはみ出してしまう人(今なら「空気が読めない」と評されがちなタイプ)が気になって、一年間も何となく観察し続けてしまったり、人の話を颯爽と聞き流したり、風の行き交う場所であっちにもこっちにも意識を向けているうちに、いつのまにか口にしている内容とは全く別のことを考えていたり。

もしかすると背景には、他者とうまくコミュニケーションが取れないという屈託があるのかもしれないが、少なくとも歌の上では、ディスコミュニケーションをくよくよと気に病むでもなく、飄々と過ごしているような空気が流れている。ちょっととぼけていながら明晰な語り口が、私にはとても心地良い。

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