貴人(あでびと)は誰よりうけし勢力(いきほひ)ぞわれに詩あり神の授けし

 

                       服部躬治『迦具土』(1901年)

 

 服部躬治は1975年(明治8年)、福島県生まれ。上京し国学院に学びつつ、落合直文らの「あさ香社」に拠った。やがて久保猪之吉、尾上柴舟らと「いかづち会」を結成し、新派和歌を推進した人物である。『迦具土』はその第一歌集であり、近代短歌の黎明期の作品集であるといえよう。

 

 引用歌は、歌人としての自負を詠んだ歌ということになろう。世の中の貴人(社会を動かそうとしている者のことだろうか)の活躍を恨めしく思いながらも、自分には神の授けてくれた歌があり、自分はそれに拠って立つのだという気負いがある。「誰より受けし勢力ぞ」はお前は家柄などの良さで社会を動かしているのであり、私は今は何もないが神のさずけてくれた詩があるぞということである。在野の青年の気負いを短歌に収めており、鉄幹初期の浪漫主義と幾分通じるところもあり、興味ぶかい作品であろう。

 

つらかりし憂かりし冥闇(やみ)の手ばなれてわが世楽しき朝ぼらけかな

尊げにいます仏の箔を剥ぎてもとの姿を見ばやとぞ思ふ

ここにしてわが吹く息の狭霧より八州の野に雲満つらむか

白雪をかざみにかめば鉄のわが骨軽くなりにけるかな

 

  一首目、歌の大意としては、単純に朝が来たということだろう。「朝ぼらけ」は古典和歌的語彙であるが、内容はなかなかに面白い。「つらかりし憂かりし冥闇」という大げさともいえる表現には、夜の大いなる闇、そこでの作中主体の個人的煩悶を感じることができる。そういう大いなる闇の手を離れて、朝となると心の負荷が軽減する。「わが世楽しき」は、現代の私たちからすると「世」などという言葉が、ジャストフィットしない感覚もあろうが、古典和歌的語彙のなかに、主体の心理の動き、主情をなんとか読み込もうとした試行は、十分に評価できるように思う。二首目も、現在の私たちからするとどこか大げさな感じのする歌。貴げにいる仏の箔を剥いで、元の姿を見たい、仏の本質?を見たいということだろうか。「箔を剥ぎて」という行為、あるいはそれを想像する心が明らかに過剰なのだが、その過剰感には近代人の自意識のようなものがかすかにうかがえるように思う。四首目の「鉄のわが骨」の身体感覚も、ずいんぶん新しかったのではないだろうか。

  現代の私たちからすると、やや読みづらいような気もするし、意外と感覚が近いようにも感じられる。近代短歌の黎明期は、たった百年ちょっと前のことだったのである。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です