帰宅してあかり灯せばくらやみが箪笥のすみに逃げ込むところ

                     大松達知『スクールナイト』(2005年)

 

 外はすっかり暗くなった。帰宅して無人の部屋の電気のスイッチを入れると、部屋はたちまち明るくなり、暗闇が箪笥の隅に逃げてゆくようだった。蛍光灯はスイッチを入れる時にちらつくが、暗闇が箪笥の隅に逃げ込むという見立ては、その一瞬の時間を再現しているように思う。蛍光灯が灯るまでの一瞬を、闇は箪笥の隅に逃げ込んでゆくのである。家人が居る間は、隅に隠れているのだろう。

 『スクールナイト』は大松の第二歌集で、二九歳から三三歳までの歌を選んだという。

 

けふひとひ右斜交(はすか)ひに白き壁ありていつでもわれを見てゐた

 

 右斜めに白い壁のある場所で一日仕事をしていたのだろうか。「いつでもわれを見てゐた」は、壁に見張られているようで、ちょっと怖い感じもする。「われを見てゐた」の主語はもちろん「壁」であるが、同時に壁が私を見ている場面を外から眺めている視線のようなものがこの表現には混じる(「いつでも」あたりに、外から観察しているような感じが出ているのかもしれない)。自分を外から眺めるメタな視点がわずかに感じられ、そこから「白い壁に見られている」という意識が出てくるのではないか。

 

 ちょっと凝った読みをしてしまったかも知れない。大松作品の面白さは、シンプルながらも、一首の中に確実に発見やウイットのある次のような作品にあると思う。

 

ぼろきれのやうなタオルがぼろきれに変はる刹那のおそろしきかな

どんぶりを洗ひ終へればどんぶりにかぶせたり交尾させるにも似て

 手の甲は手の平よりも早く老ゆ 回転鮨をまた食べ過ぎて

 

 ぼろきれに近いタオルとぼろきれとの境、どんぶりの交尾、手の甲と手の平の老いやすさ。誰もが感じているというわけではないけれども、言われてみればなるほどその通りといえる場面やものの理を巧く掬ってきていると思う。日々の生活における感情の流れや、物事の細部をリアルに再生するというのとはすこし違う。場面の瞬間を詠むのではなく、メタな地点からの物事への批評の態度が入っていると言って良いだろうか。「ぼろぎれのやうなタオルとぼろぎれの差」を考える主体には、一瞬の感情や感覚よりも批評や認識が優先してゆく。

 

 酔ひて帰る妻はおほかた機嫌よくわが干し物のかたちを褒める

 いさかひを避けるべくしてうべなひし妻の放言を寝しなに腐す

 解答欄はみだして書く生徒なりき六年間をずつとはみだせり

 まじめにてやや鬱気味の生徒なりき うるせーばばーと言つて治りき

 

 妻との生活の歌、教師として生徒や学校を詠んだ歌にも多く共感した。

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