逆立ちて視る風景よわたくしは芯まで熱き地球儀の脚

鈴木英子『淘汰の川』(1992)

南半球を上にした地図を初めて見たのはいつのことだったか。確か小学校か中学校の授業で、(うろ覚えのまま書いてしまうが)「社会(地理)」ではなく「国語」か「道徳」の教科書だったような気がする。自分の常識だと思っている事柄が、地球上のどこでも常識とされているとは限らないということ。北半球を上にした地図から、北半球を中心に形作られてきた「世界史」のあり方が透けて見えるということ。そういった「気づき」のきっかけとして、「逆さまの世界地図」は提示されていた。

逆立ちの状態で風景を眺めている「わたくし」は、自らの常識に囚われることなく、さまざまな視点から世界を見つめたいと希求している。地球儀、あるいは地球そのものに自身を重ねるのではなく、地球儀を支える「脚」になぞらえているところにも、あくまでも客観的な立場を貫こうとする語り手の立ち位置がよく表れていると思う。

  小学期、われも多数の側にいき独り立ちいるあの子を囲む

  生徒なりし子に似る後ろ姿見き謝りたきことあり春の路上に

  君よりも早く老いゆくやも知れぬ窓の結露のふくらむ朝(あした)

一首目は、中学生の自殺にまつわる体験を題材にした一連から。いじめた子をただ糾弾するのではなく、いじめっ子の側に立ってしまった経験を思い返しているところに、「逆立ちて視る風景よ」と同種の、フェアネスを重んじる心が感じられる。

かつて教師の立場で生徒にしてしまったことを、いつまでも申し訳ない気持ちで記憶に留めている。君よりも年齢が若いという事実に甘えない。いずれの歌も、時として息苦しく感じられるほどに潔癖だ。

もっとも私は今、「公平さ」や「客観性」にスポットを当てすぎているかもしれない。

最初の歌に話を戻すと、地球儀の脚が「芯まで熱い」という点を見逃してはならないだろう。熱い脚の内側では、公平な人間たらんとする語り手の意志が生き生きと燃え盛っている。地球儀を支えるのは脚の部分だ、という矜持もあろう。

  引き寄せて寄せきれぬもの思わざり今太陽が私へ降りる

  戸籍から戸籍へ移るも旅ならん〈英子〉の二字がわが具体なり

普段は「引き寄せて寄せきれぬもの」の存在を意識していながら、太陽を力強く体内に宿す。結婚を「戸籍から戸籍へ移る旅」と捉える視点はどこかドライだが、下の句は、「紛れもない私がここにいる」という矜持に溢れている。このように、公平さ・潔癖さと熱い心とが共存しているところが、鈴木英子の魅力だと思う。

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