多摩川の土手を光らせ無防備な季節は腕を組んでやって来る

                                                         小守有里『素足のジュピター』(一九九七年)

 一読、「腕を組んでやって来る」という比喩が、ユーモアでもありコミカルでもあり、なんともおもしろい。具体的にはどういうことを意味しているのですかと、野暮なことを聞いてはいけないだろう。この一首、「無防備な季節」が四季のいつのことかは明示されていないし、言葉の明快さに比してどこか謎の残る作品である。
 
 私なりの解釈を記すと「無防備な季節」とは春か夏のような感じがする。温かくなり、人々の服も薄くなって気分も幾分うわむき加減の春や夏を「無防備な季節」と感覚的に捉えているのではないだろうか。「多摩川の土手を光らせ」も春から初夏にかけての光の感じにふさわしい。下の句では季節そのものが擬人化されて、「腕を組んでやって来る」のである。腕を組んだままのポーズで、大胆にも無防備に季節が入れ替わる。その爽快さを読者も楽しめばいいのだろう。

 

地下鉄が地上に覗く数秒のためらいののち発言をする

 

 本来は地下を通っているはずの地下鉄が、地上を走る区間がある。列車が地下から地上に出るとき、列車も乗客もすこしのためらいを感じる。その数秒のためらいののちに作中主体は会議か何かで発言をするのである。上の句は「ためらい」をみちびく序ということになるだろう。序の部分は実態がないわけではなく、都市で生活する人間の日常の実感がある(列車が地上に出るときの光の変化までを想像したりするだろう)。その残像を頭に残しつつ、読者はすこしのためらいののち発言する作中主体の緊張に思いが及ぶのである。

 『素足のジュピター』は小守有里の第一歌集。東京でOLとして過ごした日々を中心に編まれた一冊である。季節の変り目や、発言をするときの緊張感やら、日々の折々の思いや感覚が、口語文体で伸びやかに歌われている。

 

冷蔵庫さわさわと鳴く夕闇に西瓜を洗う ひざ洗うように

紫蘇の葉を喉にそよがせ追ってゆくパラソル担ぐひとのうしろを

うっすらと爪をぬらして帰宅する 家族と呼び合う人のいる場所

 

 一首目、ひざ洗うように西瓜をあらうという捉え方がおもしろい。西瓜をいっしんに洗っていると、いつの間にか自分の膝と西瓜が同一化しているようでもある。ユーモアでもあり、不思議な身体感覚がごく自然に口語文体の中で生かされており、一つの到達があると思う。他の歌も紫蘇の葉を喉にそよがせたり、うっすらと爪をぬらししたりという体で感じた感覚が一首のポイントになっていよう。口語短歌は九〇年代にこういう所まで到達していたのである。

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