沈黙は苦手といふより恐怖なり 顔まつしろな牛がひしめく

 

                 石井幸子『挨拶(レヴェランス)』(2012年)

 

 私はどちらかというと人との会話が苦手で、話をしていてもすぐに話題が途切れてしまう。自分がそんな調子だから、普段の会話でも適当に沈黙を挟みながら話したほうが落ち着くくらいだが、この歌の作中主体はそうではないらしい。沈黙は苦手というより恐怖だという。話が途切れることに苦痛を感じ、自ら話題を変えたり新しくしたりすることもあるのだろうか。沈黙が、どうにも苦手な性質なのであろう。そして沈黙に至ったとき、心の中では「顔まつしろな牛がひしめく」のである。目鼻がなく、黒白のまだらもない牛の顔は不気味だ。顔真っ白な牛がこちらを向いてやがて迫るような恐怖。沈黙にむかう恐怖とはそんなものであるという。ある種の心象の比喩として、下の句の映像は妙にリアルで、読者に迫る。

  

生きてゐる人ばかりなりスクランブル交差点の信号かはる

 ポケットに探り出すたびその鍵を失ふ予感強くなりゆく

 自転車が夏の坂道下りゆく育ち盛りのイルカぢやないか

 牧場に放し飼はるるほはほはの羊にもある老若男女

 

  一首目、スクランブル交差点にいるのは「生きてゐる人」ばかりだという。当たり前だが、そういわれると読者はぎょっとする。この交差点には実は生きていない人も混じっているのではないかと。下の句、「交差点の信号にいて」ではなく「交差点の信号かはる」というふうに動きがあるのもいいと思う。人に動きがあるから、ひょっとすると生きていない人も混じっているのではないかという妄想にも、どこかリアルな実感が伴うのである。二首目、鍵をポケットに手探るたびに、そのうちこの鍵をなくすのではないかという不安に駆られるというのだが、そういう不安感や意識過剰な感覚に、なんとなく共感する。三首目、坂を元気に駆け降りる自転車を「育ち盛りのイルカ」と喩えたり、四首目「ほはほはの」「羊にもある老若男女」という捉え方は、ユーモアだろう。ユーモアという余裕の一方で、表現にはなかなか意識的だ。

  

子が部屋の床にギターと炊飯器消臭剤あり桃の匂ひす

 鍋底に冷ゆる蒟蒻立ち食ひす子らがをらざる厨は広し

 花冷えの真夜を目覚むる新生児この世に縋るやうに乳飲む

 開きたる裁縫箱に今朝もある用途不明の金属の板

 霜月の空に桜の花ひらき嫌ひぢやなかつた談志が死んだ

  

 一首目、一人暮らしの子供の部屋を訪れたり(「消臭剤あり桃の匂ひす」が現代の若者ふうである)、誰もいない台所で蒟蒻を立ち食いしたり、生活の見える歌も興味深い。最後の歌、「談志が死んだ」は有名な回文だが、回文という笑いが悲しみへと転化してゆく瞬間が切ない。

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