屈折率ほどせいひくくみえながら水に沿(そ)うさまざまのはるの樹

村木道彦『天唇』(1974)

 

少し季節外れになってしまったが、春先の木々の歌。

「屈折率ほど」という言い回しは、厳密にいうと若干曖昧な気がするのだが、散文的に説明するならば、「(水などを通り抜けるときに)光が屈折し、縮んで見えるように、背の低い春の木々が川沿いに並んでいる」といった感じだろうか。

語り手は、川のそばで向こう岸の木々を眺めているのか。あるいは、高台から蛇行する川を見下ろしているのかもしれない。新芽が出始めたばかりのケヤキ、はかなげなキブシ、俯きがちのヤナギ。彼の目には、どの木も本来あるべき伸びやかさを発揮できていない、どこか「屈折」した姿をしているように見えてしまう(しかし、木々の像を歪ませているのは、彼自身の不安定な心なのではないか?)。

うららかな春の川辺の情景を描きながら、どこかナイーブな不安を内包しているのが、一首の魅力だ。「水に沿うさま/ざまのはるの樹」という不安定な句またがりも、内容によく合っていると思う。

 
  そらは地にながるるとおもうくれがたの逆光の川 逆光の春
 
  疲労こそ極度なりけれ アネモネやヒヤシンスやさむきひと日のおわり

 
これらの歌も、春の明るさと暗さとがない交ぜになっている。

一首目は、夕ぐれの川面を「そらは地にながるるとおもう」と認識する、心の暗い張り詰め方に惹かれる。二度繰り返される「逆光」が、目に痛い。

二首目。「疲労こそ極度なりけれ さむきひと日のおわり」だけならば何ということもない日常のつぶやきだが、唐突に並列されている「アネモネやヒヤシンス」が、「極度の疲労」に文字通り花を添えて、どこか甘美なものに見せている。

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