絆創膏二つ貼りいる左手の指より初夏の朝が始まる

                                                                            田中拓也『雲鳥』(2011年)

 

  初夏ののびやかな季節感と気分が歌われた歌だが、それをみちびくための上の句「絆創膏二つ貼りいる」がやや意外でありつつ、しっくりと読者に入って来る一首だと思う。「絆創膏」が二つ貼られた左手を作中主体は見ている。絆創膏で治療が可能なのだから、それほど大きな怪我ではないのだろう。ちょっとした切り傷か擦り傷か。絆創膏の下は、人間の自己治癒作用によって回復の過程にある。ちょっとした怪我ならば、絆創膏だけで直している人間の生命力にすこし心が動いたのではないだろうか。その生命力が、初夏という季節ののびやかさと気分を導いてくる。この歌は、絆創膏の歌ではなく、むしろ初夏の季節感の歌ではないだろうか。初夏という季節といのちの伸びやかさが、上の句の「絆創膏二つ貼りいる」という褻の日常からふと導かれるところが面白い。

 

紫の藤の花房垂れ下がる五月の樹々にためらいはなし

 

 「ためらいはなし」に五月の気分が出ているだろう。藤はその花房をためらいもなく長く垂れ下げている。周りの木々の芽吹きも、容赦がない。そのような、すべての命がうごめくような五月の季節感を「ためらいはなし」はうまく表現していると思う。自然だけではなく、私たちの気持ちも春になると高揚気味だ。自然や季節を歌いつつも、その背後に主体の気分がふっと出ているように思える。

 

 

紺青の空に夕雲は広がれり老いて死にたる雲の葬列

 

朝露にいたく濡れたる自転車の車輪に小さく光る日輪

 

通学用自転車の列途切れたり焦げ茶の犬が寝返りを打つ

 

 二首目、「自転車の車輪に小さく光る日輪」が小さな発見であるが、その前提として上の句の「朝露にいたく濡れたる」が効いている。この初句二句で、自転車の車輪をじっくり眺めているなという、臨場感が出て来ているのだと思う。三首目も地味ながら、「通学の自転車の列」ではなく「通学用自転車の列」がうまいのだろう。「通学の自転車の列」なら、自転車だけではなく自転車に乗っているひとの様子を想像することになるが、「通学用自転車の列」なら、読者の意識は自転車に集中する。自転車が(それに乗っているひとの様子を確認できないほどに)次々と目の前を通り過ぎてゆく感じだろう。そして、登校時間を過ぎれば焦げ茶の犬が寝返りを打つほどに、辺りは閑散とする。時間によって、場所の空気はこんなに変るのだと気付き、ああと心が動く。

 

 

くったりとグラジオラスの茎は折れ夕闇という優しさが来る

 

声と言葉の差異思いつつ首筋にするりと入りしものに戦く

 

真夜中にあなたの肩を抱き寄せるずしりずしりと団栗が降る

 

  最後の一首は性愛の歌だろうか。「ずしりずしりの団栗が降る」は木の下であなたを抱きしめたということでありつつ、どこか比喩的でもある。「ずしりずしり」とエロスの方に体は傾いてゆくようだ。

 

 

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