爆音のきはまるときに首のべて大気の坂を鉄のぼりゆく

                                                                        都築直子『淡緑湖』(2010年)

 

   飛行機の離陸を歌った歌だろうが、なにか飛行機と自分の体が同一化しているような感覚になる不思議な歌だと思う。まず、上の句から読み下してゆくと、飛行機の歌だと読み手が了解するまでにすこし時間がかかるだろう。「爆音のきはまるときに首のべて」と上の句から読み下してゆくと、ここまでで、読み手は爆音のするとき作中主体が首を伸ばしているような映像を一瞬想像する。そして下の句の「大気の坂を鉄のぼりゆく」まで読み進めると、「大気の坂って何だろう」「鉄が上ってゆくとは何のことだろう」と序々に想像が広がり、そうか鉄とは飛行機のことだったのだと、読み手の推理が完結するようになっている。下の句に向かって、歌の分からなかったところが、だんだん埋まってゆくような構造であり、凝った文体になっていると思う。そして、読みが確定した後も、読み手の頭には爆音のするときに主体が首を伸ばしたような感覚、大気の坂をすうっと主体が半ば浮きながら上ってゆくような感覚が残るのである。情報量としては飛行機が離陸したというだけなのだが、主体の不思議な身体感覚がほんのりと提出される歌であり、なかなかの意欲作であると思う。このような身体感覚の表現は、現代短歌のひとつの到達ではないだろうか。

 

のみどより「ああ」とこゑ出すよろこびを知らず老いたり水中の鯔(ぼら)

 チャレンジャーの飛行士たちはその朝の七十二秒をそらへ昇りき

 ためらはぬ速度をもちて風船は雲のもすそに釣りあげられつ

 鳳仙花ぽ(ヽ)と爆ぜにけり重心をうつさむとしてころぶみどりご

 はしること脚にまかせて走りつつ毛沢東の剥製おもふ

 

   普通のことを詠んでいるようでいて、物事の捉え方や感受の仕方がどことなく独特な歌が多い。しかも、感覚の独特さが意味として表立つというよりも、作品の文体として読者に差し出されているという感じだ。一首目、鯔は海の浅いところに住んでいて雑食で泥ごと餌を食べたりするようで、あまりスマートなイメージのある魚ではない。そんな鯔は喉から「ああ」と声をだしたことがないだろうと主体は想像する。喉から声を出す爽快さも知らぬままに老いてゆく鯔、その存在にこころは寄りゆくのだろう。また、「のみどより「ああ」と声だすよろこび」は、半ばエロスでもあろうか。そして、その鯔は半ば擬人化されながら主体と重なるのである。二首目、スペースシャトルチャレンジャーの爆発事故の歌だが、爆発後ではなく爆発前の七十二秒に注目している所がおもしろい。爆破前の七十二秒はひたすら空へのぼり、高まるばかりだった歓喜。歓喜のほうに注目して、事故後が切断されているゆえに、一首はむしろ印象ぶかいものになる。四首目、ぽ、と爆ぜる鳳仙花と転ぶみどりごの取り合わせの直感も(直観だから説明しづらいのだが、鳳仙花の種が爆ぜる瞬間を見てしまい、なにか不吉なものを感じたのだろうか?)なぜか説得力があると思う。

 

 日すがらを地中の匣にすわりゐる運転士、そのしろき手袋

 しづもりてわがゐるときに手の甲の血管はふとく白く隆起す

 吊革の十指はがれてくうかんに反りつつ浮かぶみどりごのむれ

 うつぶせに運ばれてゆく朝の月ありて早春、荒川の土手

 ストッキングよりもしづかなゆふぐれに春のメロンをあなたと掬ふ

 半夜わが浴槽前のくうかんを二つに分けてゴキブリと居り

 枇杷剥いてつめたい枇杷を食べてをり爪の先までほんたうの自分

 

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