立葵われにすこしの過去ありぬ帽子をやめて日傘をひらく

 

                        朝井さとる『羽音』(2012年)

 

 立葵は初夏から盛夏にかけて咲く大柄で鮮やかな花。人の背丈ほどの大きさになり、人が突っ立つような形にも似て花を咲かせている。初句は「立葵であるわれに」くらいにとったらよいだろうか。立葵の花をみて、その姿と「われ」の姿を重ねているのであろう。そんな「われ」には、すこしの過去があるという。自分の中を、忘れられない過去がふと去来した。下の句の「帽子をやめて日傘をひらく」は、そんな思いや気分をちょっと転換するように、すこし体を動かしたという感じだろうか。歌の中では上の句から下の句へ展開の因果が明示されているわけではないが、気分の流れとしては分かる感じがする。「すこしの過去」なのだからやや抽象的な歌いぶりではあるけれど、立葵咲く夏の汗ばむ感じや、体感、それに伴う心の負荷とともに、ある瞬間の気分がすっと掬われている一首だと思う。

 

 石畳の日なたに靴を踏み出してひとり歩けば影またひとり

 流星群に降られつつ烏賊を剥いてをりどこから指かもう分からない

 足首に日ざしが絡みあたたまる会ひたくなるよプラットフォームは

 

 道端や、家や、プラットフォームでふと立ち止まったり、思考をめぐらしたりするときの歌が印象的である。一首目では、靴がクローズアップされている。石畳の日なたに歩みを進めるとき、作中主体はなぜか自分の靴とその影ばかりを見ているようだ。「靴を踏み出してひとり歩けば影またひとり」は、哲学的でも禅問答のようでもあると思うが、靴とその影への執着と、そこから孤独を感じるとい感覚はどこか奇妙でおもしろい。自分もひとりであり、自分の分身である影もひとりなのである。二首目、烏賊を剥いているとどこまでが烏賊で、どこからが自分の指なのか分からなくなったという。うすくエロスも流れながら、流星群の夜のすこしだけ神経が高ぶったような身体感覚が読み取れると思う。三首目、春の日の感じだろうか。足首に日ざしが絡むという感覚がおもしろい。春の日ざしが地面(プラットフォーム)に落ちて溜っており、それが足首に絡んでいるという感じだろうか。足首という身体で感じた春の感じが、会いたいという心の高揚につながってゆく。

 

 『羽音』は朝井の第一歌集である。日常の歌や人事の歌、自分の出自に関する歌などさまざまな主題の作があるが、自分の独自のものの見え方や感じ方が、感情整理のフィルターを通して整えられることが比較的少なく、割にナマな身体感覚や気分の推移として出て来ているような歌に、立ち止まり注目した。

 

つぶれるいちごのやうに責められゐし夢のこまかいところも腑に落ちにけり

 中肉中背のふつうの犬のめづらしさテーブルのごと歩いてゆくも

 棒のごと羽をすくめて飛びながら鳥はときどきただ落ちてゐる

 春の水汲みてバケツに沈めたり小亀のような男児の靴を

 

 「夢のこまかいところ」が腑に落ち、「中肉中背のふつうの犬」を珍しがり、「棒のごと羽根をすくめて」飛ぶ鳥に注目する、主体の感覚と視点は貴重だと思う。最後の歌は「小亀のような男児の靴」が何ともリアルでくっきりとした像を結び、印象的。

 

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