永井祐『日本の中でたのしく暮らす』(2012)
「撮ってみる」の後ろは一字空き、「もう一度」の後は二字空き。些細な違いのようだが、二つの字空けのニュアンスは異なる。
足元を見た時、「アスファルトの感じがよくて」、ふっと写真に収めたくなる。携帯(たぶん)を取り出して、撮る。
パシャリ。
しかし語り手は、その一枚では満足しない。一枚目の出来がイマイチだったのか、それとも単に興に乗ったのかは定かでないが、とにかく、続けてもう一度撮ってみるのだ。
パシャリ。
三枚目。彼は構図の中に、自分のつま先を入れる。
二字空いたその間、彼が何を考えていたのか、はっきりと示すことはできない。しかし、何気なく撮ったはじめの二枚と、「つま先を入れてみた」一枚とで、語り手の自意識のあり方に変化が見られたことは明らかだ。
足元の地面を淡々と写しているかのように見せかけて、微妙な心の機微を掬い取っている、なかなか心憎い歌ではないか。
この歌の前には、
月を見つけて月いいよねと君が言う ぼくはこっちだからじゃあまたね
ふつうよりおいしかったしおしゃべりも上手くいったしコンクリを撮る
が置かれている。
たまたま帰り道が一緒になった「君」(恋人ではなさそう。「まあまあ仲の良い女友だち」辺りだろうか)と、とりとめもない会話をする。フレンドリーに語り合うけれど、立ち止まって話し続けるほどでもない微妙な距離感と、月夜の空気感。ここは一字でなく二字空けておきたい、と作者は判断したのだろう。
二首目は、脳内のつぶやきをそのまま流し込んだかのような文体だが、「上手くいったし」と「コンクリを撮る」が切れ目なくつながれているところに、むしろ、その日の首尾に本当には満足していない語り手の屈託が感じられるようだ。
こうした、日常の中の「肌理」のようなものを読者に感じさせているのは、(実にさりげないが、しかし紛れもない)修辞の力であることを強調しておきたい。
三十代くらいのやさしそうな男性がぼくの守護霊だとおしえてもらう
公園にあるログハウス風トイレにぼくをつれてきてくれてありがとう
シャンプーの名前を言って笑われる笑った人は五階で降りた
ささやかすぎる人間模様が(そんな人間模様を語り手が結構愛しているらしいことも)面白くて、思わず、ふふっと笑ってしまう。笑った後にじわっと切なさが来て、何か負けた、という気分になる。
そっけない装丁、そっけない目次のこの本に、何だか知らないが負けるなー、と思わされるのである。
編集部より:永井祐歌集『日本の中でたのしく暮らす』について、 言及されているコラム「山雨茫茫」はこちら↓
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