梨の実は固きままにて熟しゆく花びら落ちし日の清しさに

                     野上晴子・合同歌集『雲』(1959年)

 

 梨の果実は甘くて水や蜜をたっぷりと含んでいるが、ある固さを保ったままに熟してゆく。この歌、上の句から下の句へ緩やかに時間が溯ってゆくようである。少し前、花が咲き、やがて花びらが散っていった、その清々しさと初々しさを保つなかで果実が実ってゆくという。いったん時間を溯りつつ、花から実までの時間を読者はゆったりと味わってゆくことになる。花びらが落ちた日の清しさが、ずっと続いているという所がポイントだろう。清しさを保ったまま、梨は固さを保ちつつ熟してゆくのである。やや深読みになるかも知れないが、一連の中では、この花から実までの時間が「われ」の青春との推移と二重写しになるようだ。「われ」も清潔感を保ったまま、ぎこちない固さの中で青春を終えようとしている。

 

 

要領というがわからずつまずける思いの中に口を閉じいる

 

正当に創の痛みを言うことのむずかしければふと口を閉ず

 

欠勤のわれの机の抽出しに削り揃えし鉛筆のこと

 

ストーブの燃え果てし夜の事務室に疲れて一人の吾に執する

 

青き灯の点滅続く沖に向き言わん言葉を噛みつつたてり

 

海面に浮木は黒く波に揺れ告ぐべく吾の言葉生まれず

 

 

 この作者の当時の実生活を知るわけではないが、病を得つつ仕事を続けている女性の若い日々がある。一首目、要領というものが苦手で、仕事上でも人付き合いのなかでも躓きやすい主体なのだろうか。それをつつましく「つまずける思い」と言いつつ、結句の「口を閉じいる」という身体感覚は重要である。「つまずける思い」を内に秘めながらも、主体は口を閉じるばかりなのである。口を閉じるとは、文句を言わないとかそういうことではない。何かを内に押しとどめながら、日々の生活を続けてゆく、そんな感覚を体感的に表現しているように思う。結句の身体感覚で、ぐっと読者に働きかける。五首目は、相聞だろうか。舟か灯台か、青い灯が点滅を続ける沖を主体は見つめている。言うべき言葉は心の中にあるのに、言いだせないという感じだろうか。この歌も「噛みつつたてり」という結句が、一首にリアリティーを与えていると思う。言いたくても言えない言葉があるのだということを、言葉で解説するのではなく、噛みながら突っ立っているという身体的行為で表現することにより、読者に体感のリアリティーを誘うのである。

 

 『雲』は1959年に発行された、「まひる野」の当時の若手が結集した合同歌集である。特定結社のの若手の歌だからと言ってひと括りに論じることは出来ないが、清潔な日常の生活をベースにしながらも、個性的な身体表現や、社会を見つめるまなざしは鋭く、それぞれの切磋琢磨と昭和二十年代後半から三十年代前半にかけての時代も見える。そして、それらは清潔な叙情だ。

 

もうすこし、この作者の歌を引いておこう。

 

 

メーデーの日の土砂降りに濡れて来し母の気負いはつつましけれど

 

母にのみ言わんと思う一人の名告げかねて長き冬も越え来ぬ

 

アイロン火照りさめゆくしばらくを夕かげ部屋の隅々に満つ

 

飛行機雲流され遠く消えし後夕餉の卓に食器揃えぬ

 

 

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