妙にあかるきガラスのむかう砂丘よりラクダなど来てゐるやもしれぬ

永井陽子『モーツァルトの電話帳』(1993)

 

 
今、鳥取に来ている。今日はこれから鳥取砂丘を見に行く予定だ。砂丘を見るのは生まれて初めてで、楽しみにしている。

七十代半ばになる私の上司は鳥取の生まれで、砂丘のすぐ近くで青春時代を過ごしたのだという。鳥取出張があると報告したところ、上司は砂丘の広大さや、雪の降り積もった砂丘でスキーをする楽しさなどを生き生きと語ってくれた後、
「しかし今はずいぶん雰囲気が変わってしまった。特にあの……」
と口をへの字に曲げ、憎々しげに
「駱駝!」
と呟いた。そうですよね、日本に駱駝がいるのは邪道ですよねーと相槌を打ちつつ、(うっかり乗らないように気をつけよう。たとえ乗ったとしても、会社に戻ってから絶対報告しないようにしよう)と肝に銘じたのだったが、正直なところ、私はちょっぴり駱駝に憧れている。砂丘の砂に足を半ば埋めながら、遠い国の大きな生き物に恐る恐る触れてみたい。
 

 
いつも見慣れた曇りガラスの向こう側が、今日はやけに明るく見える。もしかしたら、窓の向こうには昨日まではなかった広い砂丘が広がり、駱駝が私を迎えに来ているのではないか……。

それが他愛ない空想なことくらい、語り手だってわかっている(「ラクダなど」「かもしれぬ」という婉曲的な言い回しも、本気で言っているわけではないのよ、と言いたげだ)。けれどもその控えめな空想に、希望、のようなものを感じて、私はぐっときてしまう。

 
  癖とは言へどなんと背丈の高い文字背のびしてゐる文字VIA AIR MAIL

  ひまはりのアンダルシアはとほけれどとほけれどアンダルシアのひまはり

  落書きは空にするべし少年が素手もて描く少女の名前
 

縦長の「VIA AIR MAIL」の文字は、海を越えていく手紙だからこそ「背伸びして」書かれたのではなかったか。アンダルシアは、遠いからこそ美しいのではないか。

青空にだけは好きな少女の名前を記すことができる内気な少年のように、永井陽子の歌はいつもちょっとはにかみながら、遠いところへ澄んだ眼差しを向けている。

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