相良宏『相良宏歌集』(1956)
白桃を食べているとき、うっかり硬い種を噛んで、前歯が欠けてしまった。気づかぬ間に、すっかり前歯が脆くなっていたのだ。しかし、そのことが、長く生きてきた証のように思われたのだろうか、語り手は白桃の種を捨てず、そっと取っておく。ベッドの傍らの簡素なテーブルの上に。
相良宏は肺結核による療養生活の後、1955年、心臓神経症により30歳で没している。本来ならば「ながらへて」という感慨に浸るはずもない年齢の相良が、病床でこの歌を作ったと思うと、なんとも言えない気持ちになる。
もっとも、彼に「ながらへて」と言わしめたものは、彼一人の人生だけではなく、結核で先立っていった何人もの友人たちの影でもあるのだろう。
『相良宏歌集』は彼の死後、結社「未来」の仲間であった岡井隆、吉田漱によって上梓された。
歌集の前半には、
白壁を隔てて病めるをとめらの或る時は脈をとりあふ声す
高窓をかがやき移るシリウスを二分ほど見き枕はづして
読みゆきて会話が君の声となる本をとざしつ臥す胸の上
といった感傷的な(ロマンチックと言ってもいい)歌が並んでいるが、最晩年の作は、
灯を暗め眠らむとする部屋隅に音なく胸をなめて猫居り
茫然と我をながれし音楽に現実の楽は少し遅れぬ
わが視野が水底の如くなりゆきて医師が慌しく母を呼ぶ
と、あくまでも静かだ。