中城ふみ子『乳房喪失』(1954)
「梅雨季」と題された一連から。
長い雨の後ですっかりきれいになった世界を、柔らかいつのを出し、蝸牛が渡っていく。童謡「かたつむり」の引用から愛らしくスタートしたこの歌は、しかし、「人間のほかなべて美し」という意外にシニカルなところに着地する。人間たちがちっとも美しくないのは、自意識の大きな傘の下に隠れたまま、雨に身をさらすことを拒んでいるせいだろうか。
「青葉の雨あとに」辺りは若干説明的にも見えるが、下の句の大胆な言い切りがキマっている。
夫の出奔に乳がん、恋など、当時としてはスキャンダラスな内容を、幾分芝居がかった身振りで短歌にしていった中城ふみ子だが、私が惹かれるのは、次のような歌である。
懸引ののちに受けとり皺のばす紙幣に多少のをかしみはあり
行きくれて倚る飾窓にふるさとの木彫の熊と会ひにけるかも
ゆっくりと膝を折りて倒れたる遊びの如き終末も見え
身を削る駆け引きの後に受け取った僅かばかりの紙幣に「をかしみ」を見出す。ショーウィンドウの中に故郷・北海道の熊を見つける(都会の疲れや望郷の思いもあるかと思うが、「会ひにけるかも」という大仰な言い回しには、やはり何がしかの「をかしみ」が込められているように思われる)。子供が置き忘れたおもちゃのピストルから、「遊びの如き終末」を幻視する。単にユーモアと呼ぶには凄惨すぎるかもしれないが、ここで中城ふみ子が見せているのは、悲劇のヒロインというより、悲哀を帯びた喜劇役者の顔だ。
自分自身を演出する中で自ずと立ち上がってきた、ぎりぎりの「をかしみ」に、魅力を感じる。