芋切り干しの端を噛みつつ見上ぐれば晴れわたる空に恥じらいはなし

 

                               勝野かおり『Br(臭素)』(2001年)

 

 芋切干しは、さつま芋を天日に干して乾かして保存が効くようにしたもの。決して上品な食べ物ではない。干し芋の端っこを噛み、あのしんなりとした独特の食感を感じながら、作中主体は空を見上げる。結句は「空に恥じらいはなし」であるが、これは空に向かって、おい、おまえには恥じらいはないのかと皮肉っているのである。この「恥じらい」は、「恥を感じること」くらいの意味であろう。空に向かって、おまえは恥じらいがないくらい素直で屈託がないやつだなあ(私には恥を感じることがいっぱいあるよ)と、言っているのである。

 「乙女の恥じらい」ならば、恥を感じることはむしろプラスのイメージだが、ここではそれが反転している。恥を感じることは、屈託があるのであり、屈託がある者が、屈託のない空を皮肉っている歌になっていよう。空は晴れてさわやかに広がっているのだが、それを見上げる作中主体に、どこか屈折した心がある。

 すこし深読みかもしれないと思いつつ、上のような読みをするのは勝野の歌集『Br(臭素)』が、現代短歌には珍しく、怒りを内包している歌集だからである。

 

 こんな日はつろうございます、爪だけが生長していく 閑かにまひる

 角膜がにわかに乾く鳥居には鳩がわらわら戯れている

 かさぶたの掻痒感も愛しけれ足指に爪のあることなども

 くちびるを重ねるほんの二秒前唇という異様なるもの

 下着には下着の理由 締めるという義務には決して抗わざりき

 「あんただれ」とかきなぐられたる地下道に黄色い蝶は吹き流さるる

 

 「こんな日はつろうございます」というふうに、心は疲れ切っていても、爪だけは生長してゆく。「成長」ではなく「生長」と漢字表記するのも意識的であろうか。心と無関係に自分の身体の一部である爪が伸びてゆくこと、そこにわずかな苛立ちを感じるのではないか。「つろうございます」は軽い口語であるが、その内実ははなはだ苦しい。二首目、角膜がにわかに乾くという体感も、どこか疲れや怒りに繋がる。乾いた角膜を通して見ると、鳥居に戯れる鳩も決してのんびりとした風景ではない。「わらわら」あたりのオノマトペにわずかな悪意があろう。四首目は性愛の歌であるが、キスをする前の唇がぬうっと迫って来るような妙な感覚がある。「異様なるもの」を感じながら、唇を重ねたまま歌は完結しているのである。五首目、下着を半ば擬人化しており、「締めるという義務には決して抗わざりき」と、下着の与えられた使命への従順さを指摘する。それゆえに、女はずっと締められて来たのだと言うとちょっと意味が出過ぎるだろうが、下着にひとこと言いたい感じがあるのは確かだと思う。結句の「抗わざりき」の「き」は、過去の助動詞だが、ここではほとんど過去の意味はないだろう。意味よりも「き」の持つ音感や勢いをここでは直感的に使用した感じである。もちろんそれを不可とする読者もいるだろうが、何となく私は納得させられた。

 

 歌集には、父との別れや離婚、仕事上での苦難などが出て来るが、ここではあまりテーマに従って読解をしたくはない。文体や、用語の中に強引に溶かし込まれた怒りを感じ取りたいと思う。それは、一〇年前に一人の若い歌人が抱いていた感情のなまなましさである。

あ 雨の匂い 日暮れの舗装路を閑かに多数派が埋めていく

 鯖味噌に箸を汚せる午後八時なしくずし的に夜が更けていく

 空缶のなかを転がる梅干しの種 日本に国旗のありき

 電球のふたあつきれてうすぐらい雨は天から降り続きます

 掌の切符の穴を指先に押し当てていつ なんともならぬ

 

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