てふてふのてんぷらあげむとうきたてば蝶蝶はあぶらはじきてまばゆ

渡辺松男『蝶』(2011)

 
蝶をてんぷらにしようと思い立つ。からりと揚げて半透明になった蝶の羽をありありと想像して、うきうきとした気分になってくる。けれども、実際にてんぷらにしてみると、蝶は油を弾いて、光りながら飛び去ってしまう。せっかくのてんぷらの種に逃げられた語り手は、しかし格別残念に思うでもなく、蝶の羽ばたきにうっとり見とれている(……という場面だと、私は想像した。多少違う場面を思い浮かべる人もいるかもしれない)。
 
ありえない奇想と思う人もいるかもしれないけれど、蝶の鱗粉に雨粒を弾く機能があることを思い起こせば、あながち突飛な発想でもないかも、という気になってくる。渡辺松男の歌はいつも生物図鑑のような正確さで、蝶を蝶らしく、熊笹を熊笹らしく、石を石らしく描いていて、頭の中で勝手に作りあげた自然という感じがない。そうだ、確かに蝶という生きものは、熱い油を弾くような眩さに満ち満ちているではないか。
 
ひらがな書きのなかにぽつんと置かれた「蝶蝶」の文字にも、存在感がある。

 
  芒ゆれわたしのうちもそともけす銀の波いくへにもいくへにもくる
 
  さみしさのしんそこわれは唇(くち)なれば吸ひこむ風も崖も蜻蛉も
 
  わたしぽとつと沼のへに生みおとされてここからむげんへひろがる波紋
 
  てのひらを枯野の下にさしいれてにんげんのさみしさは枯野を剥がす

 
ひらがなを多用した歌を、指でなぞるように読んでいく。「わたし」と、それを取り巻く自然との境界が、だんだん曖昧になっている。

こんな歌を読んだ後は、独りで芒の中を歩くときも、寂しく風を浴びているときも、あなたの温かい身体の一部に直接触れているような気がして、私はどきどきしてしまうのだ。

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