デスマスクとられしおそれ水無月の油なす闇に顔をひたせば

玉井清弘『久露』(1976)

 

水無月は旧暦の6月。梅雨が明けて水が枯れるから「水の無い月」と呼ばれるようになったとも、反対に、田に水を張る「水の月」の意味であるともいわれているが、体感としては、ずっしりと水分を含んだ季節であるように思う。

この歌の場合は、「水無」の文字と「油なす」が照応し合い、真水よりもずっと粘っこい、貼りつくような暗闇の質感をよく表している。

その闇にずぶりと「顔をひた」した語り手は、自分は今デスマスクを取られたのではないか、と危ぶむ。闇の中に一人立つとき、死はこんなにも身近だ。

 

  疲れ来し街のはずれの店先に豆のもやしの浮かされている

  ゴムとびのゴムをおろしてひらかるる真昼の道の罠なるごとし

  さぐるようにあがる花火と見ていしが唐突にはじくおもわぬ位置に

 

個性的な名詞、リズム、音の響きなどなど、短歌の勝負どころはいろいろあるけれど、これらの歌の肝は、用言にあると思う。「浮かされている」「ひらかるる」「さぐる」「はじく」……殊更に奇をてらっているようには見えないのだが、いずれも動詞の使い方に何とも言えない艶があり、読んでいて心地良い。

 

そして、心地良さは時として、死のイメージに接近する。

 

  息ひきし父の半眼の目を閉ずる母の指花にふれいるごとし

  のどぼとけひろえば声なく寄りきたるはらからにして父をうしなう

  まぶしくもまもられてありゆるゆるとわれら喪にある者うごくとき

 

父親の死に際して作られた歌の、何と艶やかなことか。

そういえば、初めに挙げたデスマスクの歌も、読みようによっては、自ら闇=死に向かって顔を差し出しているようにも見える。死の気配を生々しく伝えてくる、美しくも危険な一首だ。

 

 

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