日本人は刻苦勉励をこのむゆえ最終回にクララは歩く

生沼義朗『関係について』(2012)

 

下の句「最終回にクララは歩く」に、ああ、そういえばそうだったなー、と膝を打つ。アニメ「アルプスの少女ハイジ」といえば「クララが立った!」という台詞が人口に膾炙しているが、実のところクララが立ち上がるシーンは、全52話中に幾つもあるクライマックスの一つに過ぎない(完全に余談だが、子供の頃このアニメの大ファンだった私は、第1話でハイジが駆けながら服を脱ぎ捨てていくシーンを思い出すだけで既に涙が止まらない)。

「初めて自分の足で立つ」という感動的なシーンで物語を終わらせるのでなく、さらに「歩かせて」しまうところに、語り手は、刻苦勉励を好む日本人のメンタリティを見出し、何かあわれを感じているのだろう。

「刻苦勉励」という言い回しは、アニメの世界観からすればいささか大仰すぎて、そこはかとないおかしみすら漂うのだが、クライマックスの「その後」に注目しているところは、いかにも生沼義朗らしい。

 

  おのずから出でにし水をきっかけとして室温に苦瓜(ゴーヤ)は腐る

  回顧される生とはいかに サルバドール・ダリ口髭の極端な反り

  五、六本ペットボトルを捨つるため纏めればなかにかろきひかりが

  物語の失効という物語ひとかかえにして表に行かな

 

食べ時を逸して腐らせてしまった苦瓜。死後に(特異な人物として)回顧されるダリ。役目を果たした後のペットボトルに宿る仄かな光。どれも、本来のピークを過ぎた時点に照明が当たっている。こうした歌の背景には、4首目の歌にある通り、「大きな物語が終わった後を生きている」という時代認識があるのかもしれない。

 

『関係について』は、先月末に出版されたばかりの、生沼義朗の第2歌集。2002年から2009年までの411首が収められている。

 

  その間に坦坦麺は置かれいて湯気にまみれし顔を見られつ

  今のわれの心理に実にふさわしくやたら細長きトイレにおりぬ

  始終湿気に踏まれるごとき土曜日は共同庭に誰も立ち入らぬ

  錦秋の錦の部分をつくづくと仕事とはいえ箱根に見ており

 

たとえば、「今のわれの心理に実にふさわしくやたら」という言葉運びはやたら冗長だし、美しい紅葉を前にわざわざ「仕事とはいえ」と断るのも、無粋と言えば無粋だ。けれども、作者はそんなことくらい先刻承知なのだろう。むしろ、ちぐはぐな現実感にその都度きちんとモノサシを当てて測っていくような律儀さ、そのように測っていくより他ないという思いこそが、これらの歌の持ち味なのだと思う。

歌の題材や文体を象徴するような『関係について』というタイトル、スタイリッシュな装丁も良い。

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