いるんだろうけど家に入って来ないから五月は終わり蚊を見ていない

                  永井祐『日本の中でたのしく暮らす』(2012年)

 

 蚊は夏の風物詩(?)だが、何月くらいから活動を始めるのだろうか。この一首では、「いるんだろうけど家に入って来ないから」五月が終わったというのに蚊を見ていないなあと述懐する。身も蓋もないような事柄を歌っているようでありつつ、どこか、そういう些事がふと心をよぎった時の気分のようなもの出ているように思う。

 まず、上の句から下の句への因果の付け方がちょっと不思議である。普通なら、「そろそろ蚊の季節だけど、今年はまだ見ていない」というふうになると思うが、ここでは「いるんだろうけど家に入って来ないから」という限定を付加する。なぜこのような限定をするのだろうか。周辺の草はらか藪か、どこかにいるはずの蚊、しかしながら家に入ってきていないからその存在を見ていないというのである。暦と蚊の実際の活動のズレを歌っているのではない。暦とともに蚊の活動は始まっているだろうけど、家の中という自分の身近にまで蚊がやって来ていないから、まだ見ていないというのである。私は、どちらかというと家にこもりがちで休日も室内派の作中主体を想像する。テリトリーが自分の家であり、そこに入ってこないから蚊か飛び始めていることに気付かない、そんな感じがするのである。しかも、「いるんだろうけど」というのだから、そういうやや内向的な自分の性質にも気付いているようなのである。なんだかややこしい読みをしてしまったかもしれないが、一見ぶっきらぼうで散文的な文体の中になぜか細心の注意をもって溶かしこまれた心理的屈折、そのようなものに私は共感の回路を見つける。

 「いるんだろうけど」の字余り、「から」という明確にすぎるような因果の提示、「五月は終わり」という挿入句。作歌セオリーからすると、どこかもごもごするような異物感ある文体が、作中主体の気分に触れているような気がしてなぜか愛しいのである。

 

 

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