注、「寛平御時きさいの宮の歌合のうた」との詞書あり
紀友則『古今集』夏歌より
歌意は比較的明快な歌だろう。五月雨の降る中、物思いにふけりつつ、さびしい声で空を鳴いてゆくほととぎすを聞いている。自らの孤独とほととぎすの声が重なったのだろうか。その声の主はどこを飛んでいるのだろうかという思いが心をよぎるのである。承知のように、『古今集』四季歌では、季節が暦通りにまるでグラデーションのように進行してゆく。のちのちまで季節の感受の仕方の規範となっている作品群であるが、この歌では、夏の郭公という季節感とともに、物思いをする人間の存在が見える。天象(季節)と人事(人の物思い)が同時に描かれているところに、特徴があるだろう。その構造は意外にも近代短歌に近いのではないか(と、私はふと妄想したりするのである)。
夏山になく郭公こころあらばもの思ふ我に声なきかせそ
五月雨のそらもとどろに郭公なにをうしとかよただなくらむ
郭公人まつ山になくなれば我うちつけにこひまさりけり
郭公は、しばしば人間のもの思いと同時に描かれるようだ。二首目、五月雨の空をとどろくように(誇張表現か)、郭公がよただ(=一晩中)鳴いている。何を憂えているのだろうかと想像するとき、郭公と作中主体は半ば重なっているようだ。