犬小屋はやみの住処となりはてて媼が見よといふ犬みえぬ

天草季紅『青墓』(2009)

 

私の家の犬がまだ生きていて、庭の片隅に犬小屋を置いていた頃のこと。夜遅く帰宅して、犬の名を呼びながら犬小屋に近づくと、普段ならすぐに飛び出してくる犬がなかなか出てこない。眠っているのかなと小屋の中を覗き込んだところ、湿った闇の奥から微かに音がする。よく聞くとそれは、今まで耳にしたことのない、犬の低い低い唸り声だった。怯える気持ちを抑え、もう一度大声で名を呼ぶと、犬は何事もなかったかのようにぴょこんと顔を出し、今のはちょっと寝ぼけていただけよ、とでも言わんばかりに、機嫌良く身ぶるいして見せた。不用意に犬の領域を侵して悪かった、と反省すると同時に、野性を剥き出しにした唸り声に、ああ、私たちは別の種族と暮らしているのだなあ、という感慨も覚えたのだった。犬がいなくなってからは、犬小屋の闇の深さを覗くこともなくなった。
 
夕闇に包まれた犬小屋。恐らくは犬の飼い主であるところの媼が、ほら、と指をさす先には、もう暗い洞しか見えない。犬は本当にそこにいるのか。小屋の中にはもう闇しか住んでいないのではあるまいか。よく見えないからこそ、そこには一層、生々しい生き物の気配が感じられる。
 
  水筒の水をこぼせばそのあたり光るとみえて影ばかりなり
 
こちらは「光」と「影」のコントラストが印象的な歌。特に季節は書かれていないが、水筒を持ち歩く、暑い夏の盛りを思い浮かべた。「光るとみえて影ばかりなり」はいわゆる「見せ消ち」のような働きをしていて、読者は無意識のうちに、「影ばかり」の路上にこぼれたわずかな水のきらめきを見出そうと、目を見張ってしまう。
 
『青墓』は天草季紅の第2歌集。2001年から2009年までの作品を収めている。
もう一首、好きな歌を引いておく。
 
  かずかずのおもひのはてに透きとほり映画はひかりの河を流るる
 
映写機から放たれる光の筋を、美しく捉えている。映画を作った人々の思いは作品の底に沈殿するのではなく、あの光の河を流れてスクリーンまで運ばれていくのだ。

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