しらしらと老のしら髪ぞ流れたる落葉のなかのたそがれの川

 

                        与謝野鉄幹『相聞』(1910年)

 

 『相聞』は与謝野鉄幹の第七歌集。鉄幹三十七歳の時の歌集である。引用歌は『相聞』の代表歌であり、ということは後期鉄幹の代表作でもあるが、どこかものさびしくて悲しくなる歌だ。三十七歳で老いを感じるというのは、現在の感覚からすると違和感もあるが、おそらくそれは鉄幹の実感であったに違いない。老いの白髪が黄昏の川を流れてゆく。鉄幹の数本のあるいは数十本の白髪が、長くなり本数が増えて川を流れてゆくのである。そういう誇張法自体は幻想的で、浪漫派の鉄幹の面目躍如なのであるが、ここでは寂しさの感情が増幅されるのがかなしい。流れるのは「落葉のなかのかそがれの川」であり、そこにあるのは徹底的な侘しさであり、今日言うところの境涯詠的な作であるといえるだろう。

 ところで、斎藤茂吉晩年の歌に、

 

最上川逆白波のたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも

 

の作がある。この作には終戦ののち疎開先で晩年を過ごすことになった茂吉のかなしみの心理が詠まれているが、たとえば、この歌と鉄幹の歌は構造がだいぶ違うように思う。茂吉の場合、最上川の真冬の厳しい景が眼前にあり、これを描きつつじじわじわと主体のかなしみが滲み出してくる。それに比べると鉄幹の作の場合、眼前に流れる川の風景から作者の内面の寂しさが触発されたのではない。寂しさの心がまず主体のうちにあり、そこから白髪の流れる落ち葉の川が創造されるのである。描かれる景はむしろ大雑把な把握であるが、白髪が波のように川を流れてゆくという発想や見立てに凄みがあるのである。それは大きな把握でありながら、心理の繊細なところを十分に表現していると思う。

 

野に生ふる、草にも物を、言はせばや。

   涙もあらむ。歌もあるらむ。                 『東西南北』

 

  かつての『東西南北』などは、青年の血気を歌い上げならも、どこか心理の把握が粗雑であったように思う。それに比べると、冒頭の引用歌は鉄幹らしい浪漫派的な方法を残しながらも人の心理をよく捉えていると思う。荒い言い方を許してもらうと、繊細な心理の把握は鉄幹の後続世代が担った自然主義が得意としたものであるが、ひょっとすると『相聞』の達成には鉄幹なりの自然主義の通過があったのではないかとも思う。

 

わが涙野分の中にひるがへる萱草(くわんぞう)の葉のしづくのごとし

 

 

  「野分のなかにひるがえる」の「ひるがえる」あたりが大きな把握であり、鉄幹らしいのだろう。萱草の葉のしずくが、野分の風の中をきらめき翻る様子は、一見景に付いているようでありながら、やはりやや誇張でもある。やや誇張されて寂しくなった景と、主体の涙、心理が付け合わされる。細部に向かわない、大きな把握のなかにかなしみの心理が確かに立ち上がってくるのである。

 

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