大塚大(歌誌「コスモス」1973年九月号より)
私は古書店に通い詰めているような人間ではないが、それでも出張先や旅行先でそれらしき古書店を見つけるとついつい入ってしまう。今日は、数ヶ月前に実家に帰省した折に高松の古本屋で百円で手に入れた「コスモス」のバックナンバーより歌を引用した。当該の「コスモス」一九七三年九月号は結社賞の「O先生賞」の発表号である。受賞者の大塚大は一九五一年生まれの当時二二歳であり、東京の大学に学ぶ学生であったようだ。
引用歌は、解釈に迷いはほとんどないだろう。夕方に片付けた机の上、うすく埃が積もっており、その埃を主体は拭こうとしているのである。なんでもないような内容の歌だが、表現はなかなか精緻だ。「あはあはと置く埃」の「置く」は意外に出てこない動詞だろう。「埃積もりし」では歌にならない。雪が積もることを「雪を置く」ということがあるが、ここでの「置く」もそれであり、徐々にゆっくり積もってきた埃が想像される。「この夕べ」という設定もいいだろう。射してくる西日に、机の埃がまるで浮くように見えたのである。なんでもない歌でありながら、表現のすみずみまでに神経の通っている作であり、このようなテクニックを当時二十二歳の学生が既に手にしていたということは注目に値すると思う。
帰り来て転附(ころぶ)しゐたるわたくしに姉は優しき声かけくれつ
桃色の合歓咲く下にわれひとり暑さしのげば蟆子(ぶよ)にさされつ
雨負ひて戻り来し犬いくばくもなく窓下に鼾をはじむ
賑はしき八手のしげり厭ひ言い仰向く父の喉仏見ゆ
受賞作「夜の時間」一連の中で描かれる家族の姿には、どこか肌と肌が触れ合うような濃密さがある。四首目、主体は八手が苦手という父の質(たち)をよく知っている。そんな父が横になって寝ており、その喉には喉仏が突起している。喉仏だけしか描かれていないが、父の肉体感というべきものは濃厚であり印象に残る。三首目は飼い犬の歌か。「雨負いて」という言葉のチョイスにもこだわりがあるだろうが、帰ってきて幾ばくもなく窓の下で鼾を始める犬には愛玩を超えた存在感があるように思う。生き物のしての匂いやら舌の涎やら、そんなものがなぜか想像される。
尿するとしばらく立つにゆくりなき開放感は羞(やさ)しきものを
空腹をやや覚えつつ眠られぬ男が闇に坐り居りたり
しづかなる夜の時間に平行しみなぎりてくる充実感は
主体自身の身体感覚も濃密である。神経を研ぎ澄ましているというのではない。一首目では放尿ののちの開放感を「羞(やさ)しき」と表現するが、自身の肉体の感覚を大切にしているようである。二首目では、空腹を少し感じつつ眠れない自分を、「男が闇に坐り居りたり」というふうに、他者の動きのように描く。それは、眠たさの中での自分のからだが自分でなような感じを幾分反映しているであろう。