高野公彦『淡青』(1982)
ロンドンオリンピックが始まった。
何を隠そう子どもの頃からスポーツ全般大の苦手で、球技に至っては、人の足を引っ張っている場面しか思い出せない。小学校のバドミントンクラブではサーブが確実にネットを越えるようになるまで3年近くかかったし、野球といえば、放課後の校庭でうっかり「最後に一球だけ打ちたい」と口にしたばっかりに、心優しいクラスメイトたちを延々付き合わせることになったことなどを思い出す(最終下校時刻を過ぎた後までピッチャー役を続ける羽目になったMくん、あのときはすまなかった)。
そんな私でも、オリンピックは結構好きだ。あの緊張感と高揚感、勝った選手の美しさと負けた選手の眼差しの深さ。
という訳で、今日から8月12日までは、スポーツの歌を(できるだけオリンピックの流れに沿った形で)ご紹介していきたい。
今日はサッカーの歌。サッカー観戦ではなく、自身がブレイしている場面のようだ。
激しい身体の動きをスローモーションでじっくり検証しているような言葉運びが、緊迫した試合の様子を生き生きと伝えてくる。高野公彦の歌としては意外なほど要素をぎっしりと詰め込んでいる印象だが、一瞬の判断・動作が全てを決定するような場面を描くには、このように言葉を畳みかけるのが効果的なのだろう。同じ一連にある、
熱き日を走り眩(くら)みてわがいのち鳥けだもののごとく水を恋ふ
も、弾けるような勢いが眩しい。
ただし、これらの歌の前には、
しづかなる家ゐに耐へず休日の昼すぎをボール蹴りに出でゆく
大空の乏しき日々をあり経つつけふ来てひろきグランドを走(は)す
駆けめぐり汗淋漓(りんり)たる熱き四肢胸郭の内に感情あらず
といった歌が並んでいる。語り手にとって激しいサッカーは、鬱屈した日々を一気に解放するための、儀式のようなものだったのかもしれない。