のちの世に手触れてもどりくるごとくターンせりプールの日陰のあたり

大松達知『フリカティブ』(2000)

 

私の出身大学は2000年の夏まで東京都北区にあり、入学してから大学2年の前期までは、駒込駅から大学まで15分ほどかけて歩いていた。

通学途中にスイミングスクールがあり、小学生くらいの子どもたちがたくさん出入りしているのを見かけた。スクールの外壁には、大きな大会の前になると「○○さん(○○中学1年)、○○大会出場!」といった垂れ幕が、でかでかと提げられている。水泳には特に興味がなかったが、毎日なんとなくチェックしていると、壁の垂れ幕に一人の子の名前がしょっちゅう出てくることに気づいた。出場する試合の規模も、関東大会、全国大会と、どんどん大きくなっていく。へえ、キタジマくんって子は結構強いんだなー、こうやって地元で応援してもらえるのはいいなー、などと思っていたら、ついに2000年の夏、「オリンピック出場決定!」の垂れ幕が出た。「結構強い」どころの話でなかったのは、周知の通りだ(そこが有名なスイミングスクールであることも、ずっと後になってから知った)。縁とも呼べないうっすらとした縁だが、北島康介の活躍を見ると、なんとなく嬉しいような懐かしいような気持ちになるのである。

 

さて、大松達知の歌だが、これはぎりぎりのタイムを競うのではなく、ゆったりと自分のペースで泳いでいる場面だろう。壁の直前でくるりとターンして壁を蹴るときの、独特の感覚――今確かに壁に触れた、という僅かな達成感と、ここからまた25メートル泳ぎ出さなければいけないのだ、という疲労感とが、同時に身体に迫って来る感じ――を、「のちの世に手触れてもどりくるごとく」と表しているのが言い得て妙だ(などと訳知り顔で書いているが、例によって運動音痴の私はターンを習得しきれず、クロールの記録はほぼ25メートルで止まっている。とほほ)。

「日陰のあたり」という描写がいい。プールサイドの庇の影が落ちているのか、プールの外の木が枝を伸ばしているのかわからないが、日陰の部分があることで、日向の水のきらめきがより強調されるようだ。涼しいプールの中でも日陰の水は特に冷たく、語り手は、そんなところからも「のちの世」の気配を感じ取ったのかもしれない。

『フリカティブ』には、こんな歌もある。

 

  プールサイドにふたつまなこを洗ひゐるほそき二すぢの水のへだたり

 

プールサイドに設置されているあの二股の蛇口は、普段は意識することのない、右目と左目の隔たりを否応なく意識させる。どこか寂しく、味わい深い一首だ。

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