いくたびも顎打たれたるボクサーのふたたびを起つ意志を恐るる

小高賢『家長』(1990)

 

ボクシングは、どちらかといえば軽めの級の方が好きだ。フライ級やバンタム級の試合は、選手のフットワークの軽さやパンチの素早さなどを見て楽しむイメージだが、ミドル級、ヘビー級になってくると、身体が身体を打つバシッバシッという勢いが強すぎて、見ているこちらまであちこち痛くなってきてしまう。

小高賢は、軽い級と重い級、どちらを好んでいるのだろうか。この歌を見る限り、重めの方が好きなのではないか、と勝手に想像する。力一杯打ち合う拳の強さに、つくづく感嘆しているような気配があるからだ。

何度も何度も殴られて倒れながらも、また毅然と立ち上がるボクサー。彼を立ち上がらせているものは、何よりも強い「意志」なのだと、語り手は考える。そして、その意志を(自らは持ち得ないものとして)畏怖するのである。

 

  黒人のボクサーの振る右フック過去撲つごとく弧をえがきたり

  倒れつつまた起ちむかうボクサーのつぶれたる眼の寝ねぎわに顕つ

 

黒人ボクサーの歌は、「過去撲つごとく」の比喩がいささか陳腐に見えて、個人的にはあまり好きになれないのだけれど、これらの歌は歌集の中で、

 

  他人(ひと)の掌の温みのこれる吊革に身を解き己が疲れまぎらす

  勤人・父・夫のわれ忘れんとして新宿を迷うまで飲む

  いいかえす気力も萎えて企画ひとつ曝されしまま会議おわりぬ

 

といった歌の間に挟まれているとき、より強い印象を残す。ボクサーの腫れあがった眼を見たとき、語り手は心の奥底で(俺モ、チカラ一杯打チ合イタイノダ)と願ったのではなかったか。

 

 

編集部より:『小高賢歌集』(『家長』を全篇収録)はこちら↓

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