志垣澄幸『空壜のある風景』(1977)
オリンピックはあっという間に終わってしまった。会社に出勤すると前夜の試合の話題で持ちきりだったり、夕方、一緒にカレーを食べていた友だちが「私、今ロンドン時間で生きてるから」と急に丸まって眠ってしまったり、夏の暑い盛りを何となくみんなふわふわ過ごしていたのが楽しかった。
オリンピック最終日といえばマラソン。これは第1回アテネ大会からの伝統で、マラソンを見ると「ああ、オリンピックも終わるなあ」としみじみする。
志垣澄幸の歌は、テレビ中継ではなく、実際にマラソン走者に行き合った場面だろう。
歩いているときにランナーとすれ違うと、速さ、というよりもエネルギーの違いに圧倒されるような気がするものだ。ここでは、手足の動きや移動距離を言うのではなく、「呼吸」だけに焦点を絞っているところが効果的。映画などにあるオーバーラップの手法のように、「われ」の身体がランナーの身体感覚に覆われていくような、不思議な生々しさが感じられる。
もう一首、マラソンの歌を。
マラソンの一団すぎて屋上の風向計が不意に北指す
こちらも不思議な歌。「マラソンの一団すぎて」までは地上のマラソン選手たちにフォーカスしていた視線がいきなり屋上に飛び、小さな風向計にピントが合う。その切り替わりが速いために、ある種、超現実的な印象を受けるのである。
音楽は聞こえざれども三階の窓に拍子をとる少女みゆ
空罐の沈む海底泡だちのおさまるきはに透けてみえたり
雪原に立ちゐる鹿が光体となりたり遠く移る陽ざしに
炎天の舗道をくればマンホールのなかより不意に人の声する
『空壜のある風景』の解説で篠弘は、志垣澄幸の歌の特徴の一つとして、「ゆたかな視覚をいかしたユニークな遠近法」を挙げ、「小さなものを、さらに微細にみていくクローサー・ルック(closer look)の視点と、ことさらに対象を大きくみていくブロウ・アップ(blow up)の視点が、複雑に交錯している。これほどまでに視覚の複合化した構造が、ほかに現代の短歌にあったであろうか」と書いている。的確な分析で、あまり付け加えることはないのだが、こうした「ユニークな遠近法」が、(「呼吸」や「音楽は聞こえざれども」や「マンホールのなかより不意に人の声」などからわかる通り)視覚のみならず聴覚にも及んでいることは見逃せないだろう。
何ということもない風景が、ビビッドな驚きと共に手渡されるのがとても心地良く、私もどうにかしてこの感じを真似してみたい、と秘かに思っている。
編集部より:『志垣澄幸歌集』(『空壜のある風景』を全篇収録)はこちら↓
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