落合直文『萩之家歌集』(1906年)
「塲」は「場」の意。夜がふけて、戦場に来てみると死体の上に炎が起ち上っているという。荒涼たる風景を詠んだ歌のようにおもわれるが、この歌を含む一連の前には実は次のような詞書がついている。
明治二十六年の末つかた、第一高等学校の生徒、鎌倉にて、発火演
習を行ひけるとき、従軍行といふを題にて百首よみたる歌の中に、
つまり、この歌は題詠なのである。直文は当時第一高等学校に教鞭をとる国文学者、教育者であった。現代の私たちは、戦争という重いテーマの歌については、特に現場に即している、リアリズムの作であると考えがちである。しかし、新派歌人の旗手でもあった直文のこのような歌、しかも百首も作った(歌集に収録されているのは三十九首)ということを考えると、私たちが考える現場とは、リアリズムとは何かということをもう一度考えなければならないような気分になる。同じ一連より、もうすこし引いておこう。
敵ははや近くよすらしうつ筒のけぶりぞ見ゆる松原がくれ
このゆふべ風なまぐさし屍(しかばね)の上より上をふきて来つらむ
楯のおもにをれて乱れて立つ征矢の鷹の羽しろく霜おきにけり
一首目、上の句「敵ははや近くよすらし」は臨場感まであるだろう。なぜなら、そう判断した根拠は「うつ筒のけぶりぞ見ゆる」にあるからである。大砲のけむりを見て、それを根拠に敵は近くにいるのだと察知しているのであり、そういう文体に読者はリアリティーを感じるのではないかと思うが、どうだろう。二首目は「風なまぐさし」に嗅覚があり、「上より上を」は多くの屍のあちらからこちらまでをの意味だろうか、まるで現場を経験したかのような記述になっている。三首目、「鷹の羽しろく霜おきにけり」も、戦のあとの風景として痛切だろう。
これらの歌の意義をこの小文で記すことは難しいけれど、題詠の中に入っている現実の手触りのことを、ややショッキングともいえる例ではあるがここで指摘しておきたいと思う。