山田航『さよならバグ・チルドレン』(2012)
出版されたばかりの山田航の第1歌集だが、巻頭の献辞「スタートラインに立てない全ての人たちのために――」で、いきなりつまずいた。この献辞を目にして、「おお、俺だ、俺のことだ」と感じる人がどれだけいるんだろうか。というのは、まあ、言いすぎかもしれないけど、少なくとも私自身に関して言えば、正直あんまり乗れないなあ、と思ったのだ。
歌集を読んでいくと、
青空に浮かぶ無数のビー玉のひとつひとつに地軸あるべし
きのふ散つた百合の替はりに窓辺にはセサミストリートのでかい鳥
など、現代短歌の様々な修辞を存分に吸い上げた歌が多数ある一方で、
走らうとすれば地球が回りだしスタートラインが逃げてゆくんだ
世界ばかりが輝いていてこの傷が痛いかどうかすらわからない
など、生きづらい「ぼく」の姿を前面に出した歌も出てくる。
試みに、「修辞に長けているが、その奥に実は不器用で傷つきやすい作者がいる」といった見取り図を作ってみると、一瞬だけ何かわかったような気分になるが、やはりどうもしっくりこない。剥き出しの感情を描いているように見える歌(や、献辞)が妙に空々しく感じられたり、逆に、修辞を凝らした歌に自由な息遣いを感じたり、どことなく出力がアンバランスなのだ。
急いで付け加えるが、私はここで山田航の作品を否定したいのではない。決してない。むしろ、ある種のアンバランスさにこそ、山田航の個性があるのではないかと睨んでいるのである。
舞台にぶちまけたガラスの破片は、傷ついた心、あるいは壊れた関係性のメタファーだろうか。演者たちは、まるでガラスなど存在しないかのように芝居を続ける。だからこそ、鑑賞している側は、ガラスの破片を意識せずにはいられない。決して言葉にされることのない深い哀しみの存在を、読み取ってしまう。
一方、「劇中それにはいつさい触れず」という下の句からは、そうした効果を計算しつくしている、演出家の目が感じられる。果たして語り手は、芝居の鑑賞者か、それとも演出家か。「ガラスの破片」の生々しさと下の句の冷静さの間で宙吊りになる感覚こそが、この歌の魅力だと、私は思う。
何だかちょっと回りくどい話になってしまったので、最後に、歌集中で特に好きだった歌を引いておく。
地球儀をまはせば雲のなき世界あらはなるまま昏れてゆくのか
まぼろしと切り捨てるのはたやすいが陽炎のまだ残る海岸
海に血を混じらせながら泳ぎ切る果てにしづかな孤島を見たり
水没する向日葵 それを投げ捨てた女は今も船のどこかに
フェルディナル・シュヴァルよ、蟻よ、かなへびよ、わがいとほしきものは地を這ふ