鼻梁ひと筋(すぢ)追ひ詰むるごと顔面を剃り終へにけり寒の水にて

 

                  田村元『北二十二条西七丁目』(2012年)

 

 人間の顔はでこぼこしていて、立体的であり、毎日の顔そりは案外に面倒なものである。寒い朝、主体は眠気まなこで顔を剃り始めたのであろう。「鼻梁ひと筋追ひ詰むるごと」という、場面の切り取りが何とも面白い。言われてみれば、鼻は顔面中央の大きな突起であり、人はそれを避けるように顔を剃る。顔剃りの観点からだけいうと、鼻ははなはだ邪魔なものであろう。顔の中央で自己主張する鼻を追い詰めるように剃ってゆくのである。自分の顔をじっくりと見つめているのであるが、そこにあるのはナルシシズムではない。即物的に自分の顔を観察しているような感覚だ。「剃り終へにけり」「寒の水にて」には、自分の姿や位置を客観的に見ているような眼差しがあり、どこかひんやりとしている。

 

夕闇の重さに沈みゆくビルに芹(せり)摘むごとき労働はあり

 やがて上司に怒りが満ちてゆく様(さま)を再放送を見るやうに見つ

 巨大行政機構の中にわれありてせめて大きくあくびをしたり

 疲れたらチカレタビーと言つてみる春のでんしんばしらに凭れ

 目黒川暗く流れてラーメンを食べるためわれは途中下車せり

 

  著者の日常は若いサラリーマンであるようだ。一首目、ビルに重たい夕闇がやって来ている。そのビルで働く主体は、しみじみと夕暮れの中で感慨にふけりながら、自分の労働のことを「芹摘むごとき」ものだなと感じている。「芹摘む」とは古典の言葉であり、「思い通りにならない」くらいの意味でとるのが良いか、あるいは野の芹を実際に積んでいる光景を想像しても良いだろう。いずれにせよ、重要だったりやり甲斐があったりする類の労働とはすこし違うようだ。「夕闇の重さに沈みゆくビルに」は私はいるのであるから、ここには自分を客体化して見るような眼差しがある。自分や自分にとっての労働を客観的に見つつ、決してニヒルにはなりすぎることはない。

その眼差しは二首目のように、上司の怒る様子を「再放送を見るやう」であるとする観察につながる。また、「せめて大きくあくび」をするという、巨大行政組織への小さな抵抗や、「チカレタビー」の呟きは、切なく身につまされるだろう。サラリーマン生活の哀感ではあるが、サラリーマン哀歌といっては大切なものを取り落としてしまう。物を見つめるまなざしが丁寧で懸命であり、詩にも生活にも率直さがある。

 

 歌と歌身を寄せ合ひてゐるごとし封書で届く秋の詠草

 企画書のてにをはに手を入れられて朧月夜はうたびととなる

 こんなとき詩歌がいかに無力かを誰かとしゃべり続けてゐたい

 

  多忙な日常の狭間で、歌を愛するこころ。「歌と歌身を寄せ合ひてゐるごとし」は、いとおしい。ややクラシックな昔堅気の青年が生きてきた、十年の時間が収められている。

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