日の沈めばうす暗き世の隅にゐていぢらしうわれ涙ぐむなり

 

                         米田雄郎『入没』(1917年)

 

 夕日が沈んでゆく様子をゆっくりと眺めていたのだろう。日没後は辺りがうす暗くなってゆき、自分が取り残されたような気分になる。そして、そのような気分のたゆたいのなかでふと身の内に感傷が湧き上がる。夕日に取り残された自分がいじらしくなって、ふと主体は涙ぐむのである。夕日を見ながら感傷的な気分になることはしばしばあるが、この歌の主体は夕日の沈んだあとの暗がりのなかにいる。日没の後を徐々に、しかし確実に暗みゆく時間と空間の圧迫感を感じながら主体は涙ぐむ。

 

 「日の沈めば」はややぶっきらぼうな歌いだしだろうか。決して夕日の沈んでゆく詳細を描いてゆくわけではない。そして「うす暗き世の隅にゐて」で、「われ」の存在が出てくるが、ここではまず鳥瞰的視点から世界の隅の小さな「われ」の発見である。「世の隅」にいる「われ」を外から眺めており、大柄なとらえ方といえる。それが下の句では「いぢらしうわれ涙ぐむなり」と、内的な感傷へと一気になだれ込んでゆく。鳥瞰的視点から自己の内側を語る言葉へと、ここで歌が変節するのである。上の句の大柄な構図のとらえ方と、下の句の内面の繊細さと、その狭間に感情のリアリティーがあるように思う。

 

 金輪の入日の前に道化者走りいでたり荘厳なるに

 すこやかにまづ太陽を礼拝す幸福をもてり貧しきなれど

 原に太陽(ひ)のおほきく赤く沈みゆけば濁悪(じょくあく)の身はもだされもすれ

 

 日の出や日の入りを歌った歌を引いた。一首目、金輪の入日と道化者の取り合わせの意外性は印象的である。結句では、そのような景に「荘厳なるに」とわざわざ解釈をつける。三首目、野原に沈む大きな太陽の景が、「濁悪(じょくあく)の身はもだされもすれ」という主体の内面を語る言葉につながってゆく。その接続が大胆で面白い。

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