高木佳子『青雨記』(2012)
琥珀は、樹脂が地中に落ち、長い年月をかけて石のように硬くなったもの。色は茶がかった黄色で、透き通っている。
戯れに琥珀を右目に当ててみると、琥珀越しの光が、夕暮れどきのように染まって見えた。それだけの内容なのだが、覗き込んだ景色がひどく寂しいものに感じられ、ちょっとセンチメンタルな気分になる。自分だけにしか見えなかった、ほんの一瞬の夕暮れの世界。
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ややマニアックな話題で恐縮だが、『青雨記』を読んでいて印象的だったのは、指示詞の多さだ。
ミルフィーユむごく崩せるけふの日のこの切り岸のごときいつとき
みづどりにそれは似てゐむ地のうへに落ちて飛び立つごとき雨滴は
たとえば、これらの歌の「この切り岸」「それは似てゐむ」という部分。もし私が作者だったら、たぶんここの指示詞は削った形で一首をまとめると思うのだけれど(その方が、イメージを身軽に飛翔させることができる気がするから)、この、いちいち足元を確認していくような比喩の律儀さに、作者らしさが表れていると感じた。
不器用なまでに律儀、という印象は、連作単位で見ても変わらない。身近な人の死や震災のことなど、深刻なテーマを実直に描いているかと思えば、ダメにした鶏のポトフに捧げる一連(!)とか、大胆なモチーフがごろりと入っていたりもして、なんだかとりとめがない。けれども、単にいろいろ詰め合わせた訳ではなく、一つ一つのテーマを吟味しながら探るように歌集を編んでいった結果、どうしようもなくこうなった、という感じがする。そこがいい。
好きな歌をもう少し引いておく。
蟻の壜忘れてありぬ 今のいまたふれて蟻のあふれむとする
無音なるテレビのなかに跳躍の棒高跳びの選手うらがへり
雨の日は雨の言葉を覚えませう、―さうですね、陽射しの日には陽射しの言葉を
野生とはいかなるものか苛々とわが噛みゐたるサラミ・ソーセージ