映画三つ借りて来たりぬ飛び石のように老いゆくジュリエット・ビノシュ

吉川宏志『燕麦』(2012)

 

ある日、レンタルビデオショップでジュリエット・ビノシュ出演作を3本まとめて借りてきて、年代順に観てみる。たとえば、「ポンヌフの恋人」と「嵐が丘」と「ショコラ」。「ポンヌフの恋人」と「嵐が丘」は公開年が1年しか離れていないから年齢の変化はわずかだけれど、「嵐が丘」から「ショコラ」までは8年あるから、ビノシュは、急にたくさん年を重ねてしまったように見える。美しい容貌のままで。

「飛び石のように」という比喩は、さりげないようでいてすごくいい。一つ一つの映画の中に封じ込められた俳優たちの年齢を感じさせると同時に、直線的にではなく、まばらに(しかし容赦なく)進んでいく、時の流れを感じさせる。

現役の女優についてずばりと「老いゆく」と表現するのは、なかなか勇気のいることのように思えるが、この歌に限っては、「老い」という言葉がむしろジュリエット・ビノシュへの賛辞のように響くから不思議だ(私の偏見かもしれないが、ビノシュは早くから「老い」を顔に刻んでいったタイプであり、しかもその「老い」を味方につけてキャリアを積み重ねてきた人ではないだろうか)。

 

ところで、ビノシュの映画を3本も借りたのは、一体どんな人物だろう(もちろん作者・吉川宏志の年齢ならすぐわかるのだけれど、ここは一旦とぼけてみます)。

10代の学生であれば、それほど「老い」を意識することなく一気に観きってしまっただろう。反対に、ビノシュよりずっと年上の人であれば、彼女に対して「老い」という言葉を使うことにためらいを感じるに違いない。ここは、ビノシュと比較的年の近い人が、自分とビノシュの半生をぼんやり重ね合わせながら映画に見入っている、という構図が一番しっくりくるような気がするのである。

 

余談だが、この歌の2首後には、

 

  島ごとに脚を置きつつ海上に伸びゆく橋の白く照りたり

 

がある。四国にかかる橋を詠んだ歌で、ビノシュの歌とは直接の関連性はないのだが、「飛び石のように老いゆく」と「島ごとに脚を置きつつ海上に伸びゆく」が、それこそ飛び石のように遠く繋がっているような気がして、ちょっと嬉しくなった。

その他、好きな歌を引いておく。

 

  ひさしぶりに支社に来たりてこのへんが鰻坂かとのぼりゆきたり

  腹あしき人とはすぐに怒るひと 榎木の僧正またわが娘

  この家のなかにも小さき十字路のありて娘とすれちがいたり

  本はつねに本を呼びおりその声に引かれて買いぬ雨の表紙の

 

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