伊藤一彦『瞑鳥記』(1974)
赤の他人に口の中を見せるというのは、結構恥ずかしい行為であると思う。自分自身は肉眼で覗いてみることのできない場所を無防備にさらしていると、心の中まで全て見透かされそうな、落ち着かない気分になる。
しかしこの歌の語り手は、そこで物怖じしていない。むしろ、自分の口の奥にある言葉に、誇りを持っている。
「歯を抜いてもらう」のではなく「盗ませてきた」と表現しているところにも密やかな自負が感じられる。青年歯科医と「われ」の間に実際の会話があったかどうかは定かではないが、一本の歯を介して、つややかな交流が交わされたことは確かなのだ。
かぜはかぜ われはわれなれど 書かざりしわが詩の一部こそ風の芯
「わが詩の一部」が風の芯となり得るという誇り高い宣言にも、心打たれる。
もっとも作者は、言葉や詩の力を無暗に信じているという訳ではない。むしろ、理想が高いからこそ、言葉がおぼつかなかったり、言葉によってわかりあえなかったりしたときの悔しさは人一倍であるように見える。
さむきわがことばより鳥のことばもて語りたきかな父への愛は
友情のそのみなもとにあるべき詩みえざり鹿を愛してもどる
ゆずりえぬ論理とおもいまもりいるそれも口ごもり語りてきたり
これらの歌で描かれているのは、父への愛をまっすぐに言葉にできず、「ゆずりえぬ論理」を語る時さえも口ごもってしまう、不器用な語り手の姿だ。
もしかすると、言葉は口の内部に留まっているときにこそ純粋な輝きをもっており、実際に書いていない詩だけが風の芯と成り得るのではないか。そう考えると、一見誇り高い「内部にかがやく言葉」「わが詩の一部こそ風の芯」といった言葉が、微妙な陰影を持っているように感じられてくるのである。