思い出が痛くて眠れぬ夜半の雨オキシドールのように沁むるよ

 

                    久保みどり『熊野のアリア』(2012年)

 

 何の思い出であろうか。過去の、ある地点の思い出が頭の中をめぐって眠ることができない。「思い出が痛くて」は、やや直接的でこなれない表現のようでもあるが、思い出が心に刺さるような感じが生に伝わってくる。オキシドールは誰もが使ったことのある消毒液である。あの消毒液の痛みのように、夜の雨が主体のこころに悲しく沁みてくるという。オキシドールの比喩は半ばユーモアであるが、しかし主体の心の痛みはまぎれもない。

 

 実はこの「思い出」は、この作者にとっては亡夫との思い出である。

 

 吾を叱る声なく冷たく素気なく柩の夫は他人の顔して

 シェイバーより零るる鬚の灰白も命ある日の君の一部と

 抱かれしは君のみなればわが若き弾力知るはもう誰もなし

 

  素気なく他人の顔をして柩に納まる夫、シェイバーより零れる鬚の灰白。いずれも夫の死を物語る現実のリアリティーがある。「素気ない」も「鬚の灰白」も小さな現実に注目している部分であるが、こういう所に歌の手触りがあるのであろう。リアリズムがすっと読者の中に落ちて来る。「わが若き弾力」を知る君を失ったかなしみは深い。

 

 ひとりきりの夜のテーブルに匂い立つメロンの網目どこから解く

 「あと五分でお風呂が沸きます」顔のなき女の声が甚(いた)く優しく

 寝室の窓の外なるセンサーライト風にて点る猫にて点る

 称えゆく般若心経その先を意識するとき口は躓く

 

  夫を失ったあとの日々の作は何でもない所に注目しながら、日常の心理と機微が彫りふかく歌われている。メロンの網目をどこから解くのか、横から声をかけてくれる人はいない。夫のいない日々という文脈の中でこそ、「どこから解く」が具体的な哀しみとして立ち上がる。「解く」という動詞の選択も良いのだろう。三首目は、敏感に過ぎるライトのセンサーを歌っただけの作のようでありながら、そのように敏感なセンサーと主体の心のふるえが淡く重なる。風も猫もいとおしく、センサーも主体の心も反応するのである。夫の死後、生活の中で見るもの触れる物が時に作者に痛切に迫って来ているようである。

 

  挽歌以外の作も上げておく。

 

 昏れ果てし階手さぐりに下りてゆくのみどを伝うミルクのように

 どこから来てどこへ行くのか雨上がりの水溜りに電線一本揺れて

 久久に母訪えば炬燵より二十年後のわれが振りむく

 自動ドア口を開きてまたひとり着脹れの老い呑むクリニック

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