風狂ふ桜の森にさくら無く花の眠りのしづかなる秋

水原紫苑『びあんか』(1989)

 

小学校の頃は、校庭に立つ桜の木にほとんど恋心を抱いていた。特に、中性的な丸みを持った一本の枝がお気に入りで、毎日のようにそこを撫でに行っていた。あまり意識していなかったが、思えばあれは結構艶めかしい関係であったと思う。

今以上に頭でっかちだった当時の私は、桜といえば春の花の季節、という風潮がどうも気に食わなかった。みんな、春にばかり桜をちやほやしすぎなのではないだろうか。確かに、満開の頃の桜はすばらしい。けれども、夏の盛りの鬱蒼とした緑も、錆色に色づく秋の様子も、葉を落としきった冬の幹も、それぞれに魅力的なのではないか、と。

 

数年後、私はこの歌と出会い、何となく留飲を下げることになる。花の季節に最も遠い秋。冷たい風に枝を震わせる桜の内部では、無数の花たちが静かに眠っている。目には見えないが、いや、目にすることがないからこそ、その眠りは純粋で美しい。

風の「動」と、花の眠りの「静」。見える世界と、見えない世界。対立する概念を串刺しにする、語り手の強靭な眼差しが印象的。秋の桜の妖しさを捉えた、美しい歌だと思う。

 

  海やまのくれなゐ吸ひて目覚めたる闇今しばし歌はずにゐよ

  生まれざる歌びと碧(あを)き眼(まなこ)にて見えず歌はず空・海のごと

  殺してもしづかに堪ふる石たちの中へ中へと赤蜻蛉(あかあきつ) ゆけ

  たそがれの鏡音なく泡立ちぬ 逢ひて逢はざるわたくしのため

 

『びあんか』には、「歌はず」「しづか」「音なく」など、静寂を感じさせる単語がよく出てくる。けれども、それらの歌から感じるのは「静」よりもむしろ「動」、何というか、胸を掻き乱されるような感覚である。夕焼けを吸って目覚めた闇は、完全な夜が来れば遠慮なく歌い出すのだろう。生まれることのなかった歌びとは、その内に無数の歌を秘めていることだろう。見えないものを見、聞こえない声を聞いてしまうとき、この世は無限に騒がしく、狂気に満ちた世界と化すのである。

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