路上にて少年は踊るはだか馬のような背筋月にさらして

                                                            佐藤晶『冬の秒針』(2012年)

 

路上でストリートダンスをする少年。一瞬服が捲れたのか、その激しく動く背中が見えた。馬の背のような背筋に月の光が射して何とも美しい。結句の「さらして」という言いさしの形のためだろうか、歌われたのはシャツが捲れたという一瞬の景のはずだが,歌の中では時間がまるで止まっているように,ビデオの一時休止ボタンを押したかのように少年の背中が見えている。「馬」ではなく「はだか馬」、「背中」ではなく「背筋」という言葉の選択は意識的であろう。より身体性・肉体性に向かうような言葉のチョイスには,主体の美やエロス、若さへの憧れというものがあるだろう。

 

本書は「井泉」に所属する作者の第一歌集である。上の引用歌のエロスや若さへの憧れは、春日井建の美学の影響もあるだろうか。一方で、歌集全体としては,むしろ主体の現実世界との軋轢の跡を残すような,作も多いように思われた。

 

 

テロリストわれより若くこの街で静かに失望してゆくわれら

手の厚き青年たちが地下の道を掘り進んでいる時計塔前

一日中ゲームしているゆっくりと自殺しているのかもしれない

すこしづつ疲れ始めた夏雲を防犯カメラだけが見ている

弱音のペダルがかかっているようにいつでもきみは説明不足

クッションはわたしの頭をうけとめて考えごとの分だけへこむ

メール打つおやゆびこそがわたくしの本体なのかもしれないまひる

 

一首目、春日井美学に準じるならば、若きテロリストへの憧れを歌い上げることになるだろうが作者はそうはしない。若きテロリスに半ば憧れながらも下の句で「静かに失望してゆくわれら」というふうに、主体の精神の疲れと内省へと歌は向かうのである。三首目、「ゆっくりと自殺しているのかもしれない」と自分を見つめつつ、それでもゲームを続けてしまった一日は何とも気だるい。下の句は発見や批評にならず、そのように物事を認識しながらも自分の状況をどうしようも出来ないというところに、どん詰まり感がある。四首目,晩夏の空を見ているのが防犯カメラだけだったり、五首目、弱音ペダルがかかっているように」自分の思いを告げられない恋人がいたり、描かれる景はやや機能不全気味だ。七首目の、自意識が極限まで肥大したような感覚は面白いが、同時に疲労感もある。

 

 

エジプト産のジャムぴっちりと塗りたればガラス質なりライ麦パンも

睡蓮の群はそろって空あおぎナイルの青き河馬を呼ぶらし

検討と判断たえまなくつづけ自動改札機のあかんべえ

誰のことも振り払えないSさんの青いスリッパ脱げかけている

 

筆者としては,この四首のような日常のちょっとしたひとコマが見えるような作が心に残った。一首目、エジプト産ジャムをパンに塗ったところ,そのジャムの透明を通してパンまでが「ガラス質」に見えたという。「ガラス質」という言葉によって,ジャムやパンの状態がすぐ目の前に見えるようだ。こういうさりげないところにリアリティ-を感じる歌もいいと思う。三首目の「検討と判断」「あかんべえ」というユーモアや、四首目の脱げ掛けている青いスリッパが物語るSさんの人柄、いずれもじんわり滲むような叙情があると思う。

 

ヒソヒソとささやくような片仮名で中世の僧が記せし夢の記

請雨経に描かれてありし青龍の鱗を思う笹のきらめき

銀杏散る秋の日なりや議論に負け僧が素足で山を去りしは

容赦なき人物評をするときに漢籍の知の冴ゆるさびしさ

 

中世文学の研究者であるという著者の、学究生活が見える歌も印象的である。

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