派や系でくくって話す 単純化した部分だけ伝えるために

牧野芝草『整流』(2012)
 
個人的には、「派」や「系」でくくる話が苦手だ。簡単にくくられてたまるか、という気持ちもあるけれど、そもそも単純化したり、図式化したりする作業自体が不得意なのだ。「男ってこうだよね」と言われても「いや、別に女でもそういうのあるしなあ」とモヤモヤ、「若手歌人は今どう思っているの」と振られても「うーん、いろいろな人がいますからねー」とモゴモゴ、煮え切らないことこの上ないが、言い切ってしまったときに取りこぼすものの方が気になってしまって、どうも口ごもってしまう。私が短歌を作っているのも、この短い詩が、言葉の混沌や世界の奥行きを感じさせてくれるからだと思っている。
 
だから、この歌を読んだとき、ちょっと意表を突かれた。もちろん、日常の中ではよくある場面なのだけれど、短歌の形で言い切られたとき、そのドライな感覚に新鮮さを感じたのである。
 
語り手は、決して物事を単純に捉えている訳ではない。単純化したときに取りこぼしてしまう部分があることを知っている。しかし、単純化して語ることの利益を見極め、あえて、くくっているのだ。
 
牧野芝草(まきの•しそう)は結社や同人誌に所属せず、東京都内の歌会や勉強会などを活動のベースにしている。私は毎月のように会っているが、いまだに本名も生業も正確に知らない。本人を見たことがなく短歌だけを読んでいる人にとっては、性別もわからないかもしれない。
無所属ということとは直接関係ないが、その歌も評も、どこか短歌離れしているというか、不思議に理系っぽいところがある。
 
  名目として使われる「しあわせ」が口内炎をつぎつぎに生む
  長いものに巻かれるために学生の身分を捨てる 歯車になる
  明治屋で買って冷蔵庫に入れた柚子胡椒の壜に降る霜
 
歌集のタイトル、一瞬「清流」かと思ったが、ああ、違った、乱れている流れを整える方だ、と気づいて納得した。電流を交流から直流に変換するような理路整然とした佇まいが、この歌集全体を覆っている。

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