電車から駅へとわたる一瞬にうすきひかりとして雨は降る

                    薮内亮輔「花と雨」(角川短歌2012年10月号)

 

 

 駅について電車を降りる。おそらく小雨降る日なのであろう。ホームへと移る時ほんの一瞬だけ雨に濡れる。「下りる」ではなく「わたる」という動詞の選択がいい。「わたる」のほうが、動作としてやや不安定な感じがする。「下りる」ならば、電車からホームへと移動する時間は単なる通過であるが、「わたる」ならば移動する時間そのものが意味を持つように思われる。電車からホームへ移る時の一瞬の不安定さのなかに、雨に振られて主体は感じ入っているのである。「うすきひかりとして」降るのはごく細かい雨であろうが、それは主体の心理に影を持たせているようだ。余韻が主体の心に長く残っている感じである。日常生活の中のちょっとした心理の照り陰りが、独特の言葉の斡旋に滲んでいると思う。

  「花と雨」は、本年度の角川短歌賞受賞作。細部まで行き届とどいた修辞の背景に主体の影や体温が読み取れるような作が、私の心に残った。

 

 苦瓜のやうなかをりに雨が降る「男なら泣くな」とむかし言われき

 うざいだろ?それでいいんだ蒼穹にゆばりを流しこんでる。神も

 おまへもおまへも皆ころしてやると思ふとき鳥居のやうな夕暮れが来る

 牙のやうな炎を点(つ)けて水を煮るわたしはわたしの飲食(おんじき)のため

 

 一首目、降る雨から「苦瓜のようなかをり」を思う主体には、明かされない心の葛藤のようなものがあるだろう。「男なら泣くな」と言われた昔を思い少年時代の自分を愛しみつつ、現在の主体もの思いのなかにある。二、三首目には、ふと洩れる主体の激情がある。「おまへもおまへも皆ころしてやる」と言いつつ、下の句では一歩引いて、「鳥居のやうな夕暮れ」を見ている。「鳥居のような夕暮れ」という尽くされた修辞と上の句のナマな感情が対象的であるが、その齟齬のような組み合わせにこそ感情が溢れる時のリアリティーがあるいように思われた。

 

 日々に眠りは鱗のやうにあるだらう稚(おさな)き日にも死に近き日も

 自分が死ぬわけではないと安堵する自分もゐたりくらく照る雲

 あまり会いに来てくれないと(ゆふぞらだ)つよくなんども叱責されて

 草の花は地面ぎりぎりに咲くからに泥がつくんだ花びらのうへ

 雨といふにも胴体のやうなものがありぬたりぬたりと庭を過ぎゆく

 

  身近な人の死を歌ったと思われる作も印象的だった。日常の生活のなかで、人の死にゆく経過をじっくりと見つめて葛藤している時間が重たい。一首目、眠りが「鱗のようにある」という時間感覚は、死にゆく人を前にしているからこそ研ぎ澄まされている。二首目のように「自分が死ぬわけではない」と安堵する心は、死に行く人とともに過ごす時間の中にある。死者と空間や時間を共有する感覚があり、そこが痛切だ。歌うことによって亡き人を悼むという意味での挽歌とは、やや違ったスタイルだ。四、五首目は、直接に死者を歌った歌ではないが、やや深読みすると「胴体のようなもの」が「ぬたりぬたりと」過ぎ去ったあとの空間は、近しい人が亡くなったあとの空間に似ているようにも思う。

 

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